第51話 ラブラブマックス
放課後の教室を染める茜色の光が、私の足元に長く歪な影を落としていた。
呼吸の仕方を忘れたように硬直している私を見て、早瀬さんは気まずそうに、けれどホッとしたように肩をすくめた。
「ちょっと、そんな本気にしないでよ。別に、誰かに言いふらすつもりなんてないからさ」
「……え?」
「夏に花火大会の写真探してたらさ、本当にたまたま見つけちゃったの。私も行ったんだけどね! 全然上手く撮れなくて! 結城くんの写真マジ綺麗!」
「……どうも」
「最初は気付いてなかったんだけどね。読んでたらもしかしてって。……ごめんね、覗き見したみたいになっちゃって」
彼女は少しだけ申し訳なさそうに眉尻を下げた。
いつも派手なグループの真ん中で笑っている彼女が、こんな風に気遣うような表情を見せるなんて想像もしていなかった。
「別に……見られて困るような事は書いてないです」
「あんなラブラブマックスなブログ、私だったら見られて困るけど……。でもさ、学校じゃあんなに仲良くしてるのに、夏休み明けから急にブログで東雲さんのこと書かなくなったでしょ? もしかして東雲さんに何か弱みでも握られて、無理やり付き合わされてるんじゃないかって……ちょっと心配になっちゃって」
「弱み?」
早瀬さんの突拍子もない解釈に、私は思わず毒気を抜かれて、つい吹き出してしまった。
「うん。東雲さんって隙がないっていうか、何を考えてるか分からない所があるでしょ? だから結城くん、本当は嫌々パシリさせられてるのかなって」
早瀬さんの口から出た予想外の言葉に、私は張り詰めていた糸がふっと緩むのを感じた。
彼女は私をからかったり、追い詰めたりするために声を掛けたわけではなかったのだ。
ただ純粋に、不自然な私の行動を心配してくれていたらしい。
……というか、やはり客観的に見ても、私と東雲さんの距離感は『付き合っている』か『弱みを握られている』かの極端な二択に見えるらしい。
「……違いますよ。弱みなんか、握られてません」
「本当に?」
「はい。嫌々なんてこと、一度もないです」
私はゆっくりと首を横に振った。
私が彼女のことをブログに書かなくなった理由は、誰かに強制されたわけでも、彼女を嫌いになったわけでもない。
「……ただ、言葉にするのが怖かっただけです」
ぽつり、と。
誰にも言うつもりのなかった本音が、夕暮れの教室に静かに溶けていった。
日々パソコンの真っ白な画面に向かい、キーボードの上に指を置き、彼女と過ごした時間を、彼女の眩しい笑顔を文字に起こそうとする。けれど、それを言葉にしてしまえば、私はどうしても友達という境界線を越えてしまう。言葉を紡ごうとすればするほど『ただのクラスメイト』という枠をはみ出してしまいたいと願う、自分の生々しい感情が可視化されてしまうのだ。
『友達』という綺麗なパッケージで包み隠した、欲深くて醜い本心を、自分自身で明確に認めてしまうのが恐ろしかった。
一度でも言葉という形を与えてしまえば、部屋の奥で暴れ狂うあの『化け物』が、本当に手に負えない致命的なバグになってしまう気がして……。
……何だっけ。
前も何かをバグに例えたような気がする。
「言葉にしたら……今のままじゃ、いられなくなる気がして」
私が静かにそう告げると、早瀬さんは少しだけ目を丸くして私を見つめた。
それから、どこか呆れたように、けれど優しい顔でふっと息を吐いた。
「何というか……真面目? 堅物というよりもはやピュアかも」
「……からかわないでください」
「からかってないし。まぁ、好きでやってるなら良かった」
早瀬さんはパイプ椅子から立ち上がると、ふと思い出したように振り返り、いたずらっぽく笑った。
「あ、そうだ。今度、私にもお弁当作って持ってきてよ。あの黒酢の角煮、すっごく美味しそうだったからさ」
「えっ……?」
「あはは、冗談冗談! じゃあね、引き留めてごめん!」
私が目を瞬かせている間に、早瀬さんはひらりと手を振って教室を出ていった。
パタン、と扉が閉まる音が響き、教室には再び私一人だけの静寂が降り積もる。
記事の内容までしっかり読まれていた気恥ずかしさと、彼女のあっけらかんとした優しさに、私は大きく深呼吸をして鞄を肩に掛け直した。
***
一階の保健室へと向かう階段は、西日が差し込んでオレンジ色に燃えているようだった。
先程までの動揺は不思議と消え去り、代わりに胸の奥で、静かな、けれど確かな熱が燻っているのを感じる。
言葉にすれば壊れてしまうかもしれない。
けれど、言葉にしなければ、永遠にこのままだ。
保健室の前に着き、私はそっと曇りガラスの扉を開けた。
消毒液の匂いが漂う薄暗い室内。
白い衝立の向こう側から、微かな物音が聞こえる。
「……東雲さん、迎えに来ましたよ」
声を掛けながら衝立の裏に回り込むと、ベッドの上に身を起こした彼女が、目をこすりながらこちらを見上げた。
寝起きの少し乱れた髪と、夕日に染まった柔らかな頬。
その無防備な姿を見た瞬間、私の胸の奥に閉じ込めていた感情が、またしても甘く疼き始める。
「あ……結城くん。おはよう」
「もう夕方ですよ。具合は……大丈夫そうですね」
「うん、もうすっかり大丈夫。結城くんが手、握ってくれたからかな」
彼女はふわりと微笑み、いたずらっぽく首を傾げた。
その笑顔を見るたびに、私は自分がどれほど愚かで、どれほど彼女を欲しているかを思い知らされる。
越えたいと願ってしまう自分が、たまらなく醜くて、悔しくて。昂る自己嫌悪による吐き気さえも、私は決して表情には出さない。
「……ゆっくりでいいですよ」
私は彼女のリュックを手に取り、努めて平坦な声で言った。
言葉に出来ないどろどろとした想いを、今はただ、ひんやりとした理性の奥底へ深く沈めながら。
──頭では「これ以上踏み込んではいけない」と激しく警鐘を鳴らしているというのに。
私は秋の夕暮れが待つ帰り道へと、ベッドから降りる華奢な身体を支える為、当たり前のように、ごく自然に、大好きな彼女の手を強く握り返していた。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




