第48話 豚バラ肉の黒酢角煮
深い夜の底に沈んだような自室。
私はデスクの前に座り、静まり返った部屋に心地よいタイピングの音だけを響かせていた。
今日のメインテーマは、最近私が休日のささやかな楽しみにしている『料理』である。
【タイトル:豚バラ肉の黒酢角煮】
『皆様、こんばんは。蒼羽です。
夜風がすっかり涼しくなってきましたが、いかがお過ごしでしょうか。
私は先日、スーパーで豚バラブロックが半額になっているのを見かけ、少しだけ手間の掛かる料理に挑戦してみました。
それが豚バラ肉の黒酢角煮です。
味付けに醤油と砂糖だけでなく『黒酢』を大さじ二杯ほど加えると、豚肉特有の脂のしつこさが消え、さっぱりとしながらも深いコクが出ます。
弱火でコトコトと二時間。
箸で触れるだけでスッと切れるほど柔らかくなった角煮と、その煮汁を一晩吸わせた半熟の味玉の写真がこちらです』
私はスマホからパソコンに転送しておいた、飴色に輝く角煮の写真をアップロードした。
自画自賛になるが、中々の出来栄えである。
一人暮らしの予行演習も兼ねて始めた料理だが、どうやら私には、レシピという仕様書通りに丁寧に作業を進める適性があったらしい。
『さて、料理の話はこれくらいにして。
実は来週から、修学旅行でハワイへと行ってきます。
学生の身分で海外旅行とは贅沢な話かもですが、現地の美しい景観や、向こうの空間デザインなど、しっかりと目に焼き付けてこようと思います。パスポートや荷物の準備も万全です』
パシッとエンターキーを軽く叩き、記事を投稿する。
東雲さんと二人で買い出しに行ったことや、クレーンゲームで三毛猫のぬいぐるみを取ったことなどは一文字も書いていない。
実は花火大会の一件以来、私は東雲さんの話をブログに書かなくなった。現実での私たちは、あの不器用な夜を乗り越えて、寧ろ以前よりも近い距離感にいる。先日だって一日中彼女の買い物の荷物持ちに付き合わされたばかりだ。
しかし、ネットの世界において私はあくまで「告白こそしなかったが、適度な距離感を保ちながら、自分のペースで学生生活を謳歌している青年」というスタンスを貫いている。
その青年が今、心の扉を守っている。
数十分後。
スマホが「ピコン」と小さく鳴った。
いつもの仲間たちからコメントが届く。
【緋色】(ゲーマー)
『うわー、深夜に見るんじゃなかった!
角煮めちゃくちゃ美味しそうですね!
そしてハワイ旅行!
蒼さん、気を付けて楽しんできてくださいね!
お土産話楽しみにしてます!』
【ベスト】(演劇部)
『角煮の美しさに拍手です!
写真の撮り方も相変わらず綺麗!
ハワイ、私は行ったことないです!
青い海、夕暮れのビーチ、南の島! 羨ましい!
存分に楽しんできてください!』
【みかん箱】(主婦)
『飴色の照りがすごく綺麗ですね。
お料理の腕、どんどん上がっていませんか?
蒼さんが自分の時間を楽しめているようで何よりです。
修学旅行も、蒼さんらしく、自分のペースでゆっくりと羽を伸ばせるよう祈っています』
【蒼羽】(管理人)
『皆様、コメントありがとうございます。黒酢はお肉を柔らかくする効果もあるので、ぜひ試してみてください。
ハワイでは、定番のマカダミアナッツチョコレートを大量に買って、家族や友人に差し入れる予定です。写真も沢山撮ろうと思うので、楽しみにしていてください』
「……相変わらず言葉の裏が手厳しいな」
私はモニターの前で小さく息を吐き、苦笑を漏らした。
表向きは私を気遣う穏やかなコメントだが、彼女の言葉の裏には「あの振り回される相手と距離を置けて良かったですね」という安堵が透けて見える。
彼女の中ではすっかり「私が悪い女から目を覚まして距離を置いた」という都合の良い解釈に着地してしまっているらしい。
キーボードを叩き終え、ふぅと息を吐く。
文面ではどう見ても、冷静沈着な大人の対応である。
画面の中の『蒼羽』は、相変わらず感情の波風を立てない、物静かな青年のままだ。
私はパソコンの電源を落とし、ふと、部屋の片隅に掛けられた見慣れない服に視線を向けた。
それは先日のショッピングモールで、東雲さんが「絶対似合う」と私に押し付けてきた、あのヒラヒラとしたロングベストだ。
男としての意地を通して自分で代金を払ったとはいえ、結局は彼女の『着てほしい』というお願いに完全に屈してしまった証でもある。
別に、あの眩しいコーラルピンクのワンピースの隣を歩く自分の姿を想像して、少しでも彼女に釣り合う男になろうと、選んでもらった服を喜んで受け入れたわけではない。
ただ折角のハワイだから、浮かれた空気に合わせて小綺麗な格好をしようと血迷っただけだ。
……ネットの世界でどんなにクールな自分を演じた所で、現実の私は、彼女の眩しさに焦がれ、少しでも釣り合うようにと見えない背伸びを繰り返している。
私はみかん箱さんの言葉を隠れ蓑にすることで、何とか今日まで生き延びて来た。
踏み出した先に足場など無いという残酷な事実を認めたくない欲望が、厳重に施錠された部屋の中から、醜く暴れる人格となって「出せ、出せ」と扉を叩き叫んでいる。
禁断の果実はすぐ目の前にある。
だが、絶対に手を伸ばしてはいけない。
卓上カレンダーを捲り、十二月に付けられた赤丸の日付を見る。
赤丸は三つ。
しかし今は、楽しみより不安が勝る。
相変わらず東雲さんは私にベッタリで、私がホテルの部屋に閉じ籠もっていたら、彼女は一人でハワイを楽しめるだろうか。
それとも、親切なクラスメイトの誰かが声を掛けて、東雲さんを連れ出してくれるだろうか。
裕介さんと杉田さんは、アクティビティのアレコレの話で昼休みに盛り上がっていたのを確認している。
私自身は『一人で見て回る』という話を通してあるし、彼らを笑顔で送り出せば問題ない。
東雲さんも、女子の誰かと相部屋のはずなのだ。
……後は、まだ見ぬルームメイトの良心に期待しよう。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




