第46話 絶対に手の届かない彼女
休日のショッピングモールは、すっかりお昼時を迎えていた。
どの飲食店も店先のウェイティングボードに名前が連なっている中、私たちが運良く席に座れたのは、割と落ち着いた雰囲気の綺麗なイタリアンレストランだった。
ガーリックとトマトソースの微かな香りが漂う店内。
案内された窓際のテーブル席に腰を下ろすと、私はコーラルピンクのワンピースが入った紙袋を、隣の空き椅子に慎重に置いた。
向かいの席では、東雲さんが早速三毛猫のぬいぐるみをテーブルの端にちょこんと座らせ、愛おしそうにその頭を撫でている。
「汚しちゃいますよ?」
「だいじょーぶ。結城くん、ほら、これ美味しそうだよ」
メニューを開いた彼女は、少しだけ声のトーンを落として微笑んだ。
「色々あって悩むけど……折角だし、メインの他にピザとか頼んでシェアする? 結城くん、アレルギーとかあったっけ?」
「いえ、特には。私は何でも大丈夫ですよ。自分一人だったら、ゼリー飲料かコンビニのパンで済ませる所です」
「ふふっ、そんな食生活じゃ倒れちゃうよ。じゃあ……マルゲリータと……この魚介のトマトクリームパスタにしようかな」
「じゃあ私もそれにします。あ、サラダ食べます? この生ハムが乗ってるの、美味しそうですよ」
「確かに! じゃ、それもね。あ、すいませーん」
店員を呼んで手際よく注文を済ませた東雲さんは、再び三毛猫のぬいぐるみに視線を落とした。
「ねえ、この子の名前どうする?」
「え……ぬいぐるみに名前付けるんですか?」
「当然でしょ!」
「…………三毛猫の『ミケ』とか」
私が絞り出した略称に、東雲さんは眉間にシワを寄せた。
不満を隠しきれていないその顔が、ちょっと面白い。
「いくら何でも安直過ぎない? 折角ならハワイっぽく『マヒマヒ』とかどうかな?」
「『マヒマヒ』って、魚の名前ですよ?」
「……結城くんって、たまにすごく理屈っぽいよね」
呆れたように小さく息を吐きながらも、東雲さんはくすっと表情を崩し「まあ、可愛いから『ミケ』でいっか」とぬいぐるみの頬を指先で優しく小突いた。
そんな小さな景品一つで心から嬉しそうに出来る彼女の素直さが、私は少しだけ羨ましく思う。
「……」
私は中学生の頃、リアルで吐き出すことの出来ない気持ちを、ネットでなら自由に吐き出して良いんだと思っていた。
しかし今は……分からない。
自分だと信じて書き続けてきた一人称が、リアルを侵食し始めている。
ネットで楽しくお喋りしている自分が本当に素だと言えるだろうか。人にどう見られているか気になってしまうのは、何も東雲さんだけじゃない。
周りの目を気にして作り上げた『新しい自分』を、本物だと言えるのだろうか。演じているつもりも、騙しているつもりも全くないが、やはり本当の自分を覆い隠している感覚はある。
……ただ、その『本物の自分』とやらが、私には居ない。
厳重に鍵の掛けられた部屋に、誰も居ない。
リアルで吐き出すことの出来ない気持ちを抱えた『本当の自分』なんて、そもそも何処にも居なかったのだ。
この鍵が何の為に掛けられているのか、その扉を守っている私にも分からなくなっている。
私にとってブログは本音を話す場所ではなく、綺麗事を練習する場所でしかなかったのかもしれない。
そして今彼女のおかげで、それが良くも悪くも変わり始めている。
やがて運ばれてきた料理を前にすると、東雲さんは静かに手を合わせ、パスタを口に運んだ。
「……うん、美味しい。 結城くんも食べてみて」
私は目の前に置かれた東雲さんと同じ種類のパスタをクルクルとフォークに巻き、静かに口へと運ぶ。
休日の昼下がり。
陽光の差し込む綺麗なレストランで、笑い合える誰かとテーブルを囲んでいる。
それは、一人自室に籠もり切りだった毎日からは、あまりにもかけ離れた穏やかな時間。
私は口に含んだパスタを咀嚼し終えた後も、少しの間、沈黙してしまった。
「……結城くん? どうかした?」
「いえ……何か、現実感が無くて」
ふと不思議そうに首を傾げた東雲さんに、私はフォークを置き、誤魔化すことなく静かに口を開いた。
「たった半年前まで……自分はまだ学生服を着ていて、勉強に明け暮れるだけの、灰色の高校生活を送っていたんです」
「うん」
「それが今、こんなお洒落な場所で、東雲さんみたいな綺麗な人と食事をしていて……こんなに幸せで良いのかなって……ずっと不安なんです」
私が淡々と、けれど心からの本音を吐露すると、東雲さんのフォークを持つ手もピタリと止まった。
彼女は私を見つめ、やがてその白い頬が、ぽっぽっと音を立てるように赤く染まっていく。
「……ま、まぁ? 今日は私、ちょっとオシャレだからね! 緊張しちゃったかな?」
完全にペースを乱されたのか、東雲さんは手元のグラスに手を伸ばし、カランと氷の音を立てながら水を一口、二口と何度も飲んだ。
普段は彼女のペースに乗せられないように、のらりくらりと躱してばかりの私だが、今日は何故か、ブログで相談するより本人に……東雲さんに聞いてほしいと思ってしまったのだ。
「……そうですね。そういう事にしておきます。さぁ、早く食べないとパスタが伸びてしまいますね」
「もー……結城くんがいきなり変なこと言うからでしょ!」
少しだけ恨めしそうに私を睨み、照れ隠しのように勢いよくパスタをフォークに巻き付ける彼女。
そのいつも通りの可愛らしい反応を見ていると、先程まで私の中にあった得体の知れない不安も、気付けば温かいトマトソースの湯気と共に溶けて、また心の牢獄に閉じ込めることが出来た。
食事が終わり、まだ少しだけ顔の赤い東雲さんがバッグの中から財布を取り出そうとした時。
私はテーブルの端に置かれていた伝票に、咄嗟に手を伸ばす。
「ここは私が払います」
「えっ?」
「こういうの、一度やってみたかったんです」
「なっ……」
自分で言っておいて急に気恥ずかしくなった私は、彼女の顔を直視できないまま、逃げるように椅子から立ち上がる。
「そ、それじゃあ、先にお会計済ませておきますね。ゆっくり準備してきてください」
「あっ、ゆ、結城くんっ……待っ……!」
慌てて引き止めようとする彼女を背に、私は半ば逃げるようにレジへと向かった。
スマートに決めるつもりが完全に迷走してしまったが、会計を済ませながら、私は少しだけ口角が上がってしまいそうになるのを必死に堪えていた。
店を出た私は、満腹感とささやかな達成感と共に息を吐く。
少し待っていると自動ドアが開いて、東雲さんが本当にゆっくりと追いついてきた。
彼女は私の顔を見ると、ふいっとその手に持っていた三毛猫のぬいぐるみを私の目の前まで突き出し、その後ろに自分の顔を半分隠した。
「……結城くん、ご馳走様。
パスタ、すっごく美味しかったニャ」
少しだけ高い声を出して、三毛猫の短い前足をちょこちょこと動かしている。
腹話術のつもりなのだろうが、ぬいぐるみの影から見える彼女の唇は、ばっちりパクパクと動いていた。
「……どういたしまして『マヒマヒ』」
「『マヒマヒ』なの?! 『ミケ』でしょ?!」
私の照れ隠しのボケに、東雲さんはむすっと頬を膨らませてぬいぐるみから顔を出すと、ミケの短い前足で私の腕をポカポカと叩いてきた。
文句を言うその耳の先は、まだほんのりと赤い。
こんなに笑ったのはいつぶりだろう。
生まれて初めて、なんて言うのは大袈裟だろうか。
時刻は午後二時を回ったばかり。穏やかな疲労感もあり、そろそろお開きにして帰路に就くにはちょうどいい頃合いだ。
──なんて思っていたのは私だけで。
「それじゃあ、お腹もいっぱいになったし。次行こっか」
二人して息を整えながら、荷物を肩に背負い直す。
「……次、ですか?」
「雑貨屋さんとコスメ。あと歩きやすいサンダルも探さなきゃ。修学旅行の準備、まだ半分も終わってないよ?」
東雲さんは少しだけ首を傾げ、ぬいぐるみを抱きしめながらふわりとした笑みを浮かべた。そこには有無を言わさぬ引力が働いている。
「カッコつけて御馳走してくれちゃった分、今日は最後までしっかり付き合ってもらうからね。ほら、行くよっ」
少しだけお姉さんぶるように、けれど嬉しそうに私の腕を軽く引き、東雲さんは再び午後の人混みの中へと歩き出した。
私は大きく溜息をつき、紙袋の持ち手をしっかりと握り直す。
明日の朝、全身の気怠さと引き換えに手に入れるであろう『全てが特別で、全てが残酷なまでに当たり前の日常』を唯一の心の支えにして。
私はゆっくりと、絶対に手の届かない彼女の背中を追いかけていた。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




