第44話 ねぇ水着はどうする?
吹き抜けの巨大空間を、休日の穏やかな喧騒が満たしている。
遥か頭上のガラス張りの天井からは、少しだけ秋の気配を含んだ薄い陽光が降り注ぎ、磨き上げられた白いタイルの床を淡く照らしていた。
すれ違う人々の話し声や、下の階から微かに響いてくるカフェのBGMが、この空間全体を一つの温かいドームのように包み込んでいる。
「そうだ! ねぇ水着はどうする?」
機嫌良さそうに彼女が投げかけてきたその単語に、私は歩調を崩すことなく淡々と答えた。
「私は泳ぎませんよ? 」
「えー! ハワイまで行って海入らないの? 一緒に泳ごうよ」
東雲さんが歩きながら平泳ぎをしてみせる。
「お断りします。大体水着なんて持ってませんし」
「だから買うんでしょ? じゃあ次は結城くんの水着だね! 今度は私が選んであげる!」
「……私は冷房の効いた部屋でモニターの前に座っているのがお似合いです。海で女子と騒ぐなんて無理ですよ」
私がのらりくらりと躱していると、東雲さんは私の正面に回り込み、ピタリと足を止めて私の顔を覗き込んできた。
「何です?」
急にゼロ距離まで詰められたせいで、彼女から漂う大人びた視線に圧倒される。
「無理じゃないよ」
「……!」
東雲さんは私の腕を無造作に掴み、それから至近距離でニコッと笑った。
「結城くんって本当に肌綺麗だよね! 色白でスベスベで……いつも羨ましいなって思ってたんだ。だから海でも絶対映えるよ!」
「……肌が白いのは、それこそ一日中、部屋に籠もってゲームばかりしているからです」
「でも本当に綺麗だよ? 私が保証する! ほら手とか指とかもこんなに──」
「……それ『優しい』とかと一緒で、他に褒める所がない時に言うやつですよね?」
少し冷たい言い方だったかなと私が思うくらい、東雲さんは目を丸くしていた。
「えっ? そ、そんな事ないよ。 本当に綺麗だなって思っただけで……」
……駄目だ。
私は何を言っている。
これでは八つ当たりしているみたいじゃないか。
崖から一歩踏み出しそうになる所で、踏み出した足を宙から引っ込め、元の場所へとゆっくり降ろす。
ちょっとでも気を抜いたら、寝惚けて落ちかねない、そんなギリギリの場所から、私は禁断の果実に手を伸ばしている。
それを忘れるな。
感情に任せて口を開くな。
一つ一つ、先を読んで声に出せ。
ブログと同じだ。
誤字脱字は勿論、文脈、誤解、炎上、特定の人に対する配慮、勘違い、言葉遣い、何度も何度も読み返した上で、やっと送信ボタンを押すように、考えに考え抜いた上で世界に言葉を送り出せ。
「……さっき選んでもらった服だけで十分ですよ」
私は彼女の言葉を適当に受け流し、視線を逸らして再び歩き出した。
「……でも結城くんって、そんなに言うほどゲームしてる? 部屋も綺麗に片付いてたし、外で遊んだり全然しないの?」
「まさか。小学生の頃は普通に水泳とかスポーツクラブに通ってましたよ」
「えっ! 意外! 結城くんがスポーツクラブ!? っていうか水泳得意なんじゃん!」
確かに今の私からは想像もつかないかもしれない。
東雲さんにとっては面白そうな話題だったらしく、落ち込んでいた表情があっという間に戻ってきた。
……いや違うな。
私が先ほど見せてしまった不機嫌な様子と、その不穏な空気を払拭したくて、意図的に明るく振る舞ったのだ。
小さな拒絶がまた彼女を刺激してしまう。
気を使わせてばかりで、人生経験の差がこんな所にも表れるなんて……ブログで培った『相手の機嫌を損ねない会話術』は、彼女の引力から逃れるための防波堤にはなり得ないのか。
……一度気を引き締めよう。
「小学生のスポーツなんて遊びみたいなものです」
「じゃあじゃあ中学生の時は?」
「バスケ部に入ってましたよ」
「ええっ! バスケ部?! 格好良い!」
「レギュラーには一度も入れなかったですけどね」
「……試合出たかった?」
「いいえ? レギュラーは大変そうだなーくらいにしか思ってなかったです。元々友達に誘われて入っただけなので、特にバスケが好きだったわけでもないんです。それに部活の後は塾もありましたから」
「あー、塾かぁ。結城くん、頭良さそうだもんね」
「東雲さんよりは良いかもですね」
「お?」
東雲さんがシャドーボクシングをしてみせる。
「それで? 高校は?」
「高校は……聞いても面白くないです」
「確か進学校だったって言ってたよね? 大変だった?」
「……夏休みが無いんですよ」
「え?! 夏休み無かったの?」
「七月と八月は毎日夏期講習になっていて、周りは全て敵、満点以外はゴミ同然、本当に監獄みたいな場所でした」
当時の地獄のようなスケジュールを思い出しながら溜息をつくと、東雲さんは「あははっ、お疲れ様!」と、同情するよりも可笑しそうに笑っていた。
「……でも、本当に海入らないの? ハワイの自由行動の時、何して過ごすつもりなの?」
小走りで隣に並んだ東雲さんが、少しだけ不満そうに私を見上げる。
「部屋でゆっくりしてますよ。気が向いたら適当に外へ出て食べ歩きしたり、家族にお土産を買ったりはすると思いますけど。わざわざマリンスポーツやアクティビティを予約するつもりはないですね」
私が極めて省エネで無難な予定を答えると、東雲さんは信じられないといった顔をした。
「えぇー……なにそれ。老後みたい」
「最高の贅沢じゃないですか。何もせずのんびりするのが、リゾート地での正しい過ごし方です」
「折角一緒にハワイに行くんだから、結城くんを絶対ホテルの外に引っ張り出して、いっぱい思い出作らせてやるんだから!」
「……人の話聞いてました?」
まったく懲りていない彼女の意気込みに、私はやれやれと小さく苦笑いした。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




