第43話 もっと色々着れば良いのに
メンズエリアに足を踏み入れると、先ほどまでのふんわりとした甘い空気から一転し、少し照明が落とされたシックで落ち着いた空間が広がっていた。
私はといえば、東雲さんの少し後ろを、まるで迷い込んだ幼子のように付いて歩いていた。
「結城くんは、普段こういうお店で服買わないの?」
「基本はネット通販か、近所の量販店ですね。サイズさえ合えば何でもいいので」
「えー、勿体ない。結城くん、背も高いしスタイル良いんだから、もっと色々着ればいいのに」
東雲さんは私の言葉に不満げに唇を尖らせると、獲物を探すハンターのような目でメンズ服のラックを物色し始めた。
次から次へと服を引っ張り出しては、私の体に当てて「うーん」「違うなぁ」と呟いている。
「あ、これ! これ絶対似合う!」
彼女が目を輝かせて手に取ったのは、大きめの黒いシャツと、ヒラヒラとしたドレープが幾重にも重なった、エレガントなグレーのロングカーディガン……いやロングベストというべきだろうか。
普段、機能性重視のパーカーやジーパンしか着ない私から見れば、どう見ても芸能人の服である。
「……東雲さん、流石にそれはハードルが高すぎます。韓国アイドルか、ロックバンドのボーカルみたいです」
「……カッコいいってこと?」
「スカしてるってことです」
「そんなことないよ! ほら、ボトムスはこれで……結城くん、ちょっと着てきて!」
私の抵抗など全く意に介さず、彼女は私の胸に服一式を押し付けると、有無を言わさず私を試着室へと押し込んだ。
***
……数分後。
私は試着室の鏡の前で、頭を抱えていた。
鏡の中にいるのは、細身の黒いパンツに黒いシャツ、そしてヒラヒラしたグレーのロングベストを纏った、全く見慣れない自分だった。
服自体は確かに格好いい。
だが、自分が着ているという事実がどうにも気恥ずかしく、落ち着かない。
「結城くーん? まだー?」
「……今、出ます」
私は覚悟を決め、ゆっくりと試着室のカーテンを開けた。
外のソファで待っていた東雲さんが立ち上がり、私を見る。
そして、ピタリと動きを止めた。
「……やっぱり、変ですよね」
「待って!」
私が逃げ帰ろうとすると、東雲さんが慌てて私のヒラヒラを掴んだ。
……そこは掴む所じゃない。
振り返ると、彼女の顔は、なぜか耳の先まで真っ赤に染まっていた。
「……変じゃないよ。っていうか……すごい! モデルさんみたい!」
あまりにも予想外の単語に、私は思わず渋い顔をした。
「それ、褒めてます……? 私、モデルっていう生き物にあまり良いイメージがないんですけど。何というか、人を見下してるような……」
「なにその偏見! 本当に素直じゃないんだから」
私の身も蓋もない偏見に、東雲さんはおかしそうに笑いながら私の前に立った。
そして、少し背伸びをして、私の胸元のロングベストの襟をそっと直す。
「……私から見たら、すっごく似合ってるよ」
上目遣いでも、小悪魔的なからかいでもない。
本当に、心の底から出たような言葉に感じた。
彼女の白い指先が、私の首筋に微かに触れる。
石鹸と甘い香水、いつもの東雲さんの匂いがした。
他にも客は見えているのに、まるでこの空間だけが切り取られて、二人きりになってしまったような錯覚。
「……結城くん、ハワイにはこれ、着ていこうね」
「……それは、命令ですか?」
「お願い、だよ」
真っ赤な顔で、それでも真っ直ぐに私の目を見て微笑む彼女。
──ああ、ダメだ。
私の心の中に築き上げていた冷たい呪いも、必死に守ろうとしていた理性の防衛線も、この瞬間、完全に崩れ去った。
ただ、この可愛い人が「着てほしい」と言うのなら、私は喜んでこの気恥ずかしい服を着て、ハワイの風に吹かれよう。
「……分かりました。これにします」
私が降参したように息を吐くと、彼女は花が咲いたような満面の笑みを見せた。
「やった! じゃあ、これは私からのプレゼントにするね!」
「え?!」
「さっき、私の服の相談に乗ってくれたお礼!」
「いやいや、そういうわけにはいきませんよ。自分の服くらい自分で払います」
「私が着てほしいってワガママ言ったんだから、私が払うの! 素直に奢られておいて?」
私は静かに、しかし、きっぱりと首を横に振った。
「では……こうしましょう。今日はお互いに服をプレゼントしたということで。 誰かさん曰く、今日は『デート』……らしいですから?」
私がそう告げると、東雲さんはハッとしたように目を丸くし、それから手で自分の口元を覆い隠して、ぷいっと顔を逸らしてしまった。
「……っ、ずるい。……わかったよぅ」
耳の先まで赤くして、言葉を失って照れる彼女を見て、私はようやく一矢報いたような気分になり、密かに勝利の味を噛み締めた。
「なので、この服は私が払いますけど、さっきのドレスの分だと思ってください。東雲さんはさっき払った分を、私に買ってあげた分だと思って頂いて結構ですから」
「……変なの。結城くん、そういう所、律儀というか、面倒くさいというか」
「面倒くさくないです」
***
レジで初めてのバイト代から代金を支払い、新しい服の入った紙袋を受け取る。
都合のいいお財布係に転落する危機を回避し、私は見事に男としての意地を通し切った。
……しかし。
自分のプライドを守り切ったはずだというのに。
あの口元を隠して照れる彼女の顔を思い出すたび、もし今、彼女に何かをねだられたら、私は喜んで財布を開いてしまうだろうという確信があった。
都合のいい小道具にされる危機は回避したものの、私の心の方は、もう取り返しがつかないほど彼女に奪われてしまっていることを、嫌でも自覚させられるのだった。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




