第40話 抱き締めてみても
十月だというのにセミの声はスコールのように激しく、うだるような残暑がまだ居座っている週末。
私は学校の裏の駐車場で一人、運転席に背中を預けていた。
今日は東雲さんとの「ハワイ準備デート(彼女談)」の日。
分かりやすい集合場所である学校の駐車場で車を停め合い、そこから歩いて最寄り駅へ向かい、電車で大型ショッピングモールへ行く、という段取りになっている。
そろそろ待ち合わせ時間の十分前。
私は運転席のルームミラーで無駄に前髪を整えながら、先日の自分の浅はかな思考を反省していた。
……異性における親友と恋人の違いとは何だろう。
高校を卒業したばかりの真っ当な男子らしく、その区別が体の関係の有無くらいしか思い浮かばず、自分が男である事をたった今思い出したような感覚に陥る。
ブログでは文章の口調からよく女性に間違われる事が多いが、実際、リアルでも髪は長めで、高校生の時に親に連れられて制服を買いに行った時なんて、無口な私をテキパキと採寸した後に、店員が店の奥から女性用のスカートを持って出てきた事もある。
肌が白い事もコンプレックスの一つで、プールの授業では泳ぎが得意だった事もあり『白身魚』と馬鹿にされた事を覚えている。
……私の悲しい過去はもういい。
この辺にしておこうじゃないか。
今、私の財布には家電量販店のバイトで得た初任給が入っている。別に何に使う予定も無いが、彼女の笑顔に惑わされて、気付けば空っぽになっている……なんていう展開だけは絶対に回避しなければならない。
そんな風に自分に言い聞かせていると、駐車場の入り口から見慣れた軽自動車が舞い込んできた。
私の車の隣にピタリと駐車され、エンジンが切られる。
ドアが開き、降りてきた彼女の姿が視界に入った瞬間──私の脳内で構築されていた強固な防衛ラインは、あっけなく半壊した。
自認高校生男子の、何とチョロいことか。
「お待たせ、結城くん!」
「……おはようございます」
車を降りた私は、挨拶を返すだけで精一杯だった。
そこに立っていたのは、いつもの浅葱色のカーディガンで身を包み、私にゲームの操作を聞いてくる『同じクラスの東雲さん』ではなかった。
少し透け感のある、ふんわりとした白い半袖のブラウスに、歩くたびに柔らかく揺れる淡いミントグリーンのフレアスカート。足元は歩きやすそうなローヒールのサンダルだ。
全体的にふんわりとした可愛らしいシルエットは、間違いなく彼女の好みなのだろう。
上質な柔らかい布地越しにうっすらと透けて見える肩のライン。広めに開いた首元から覗く、華奢で白い鎖骨。そして、ほんのりと色付いたリップ。
春まで学ランを着ていた私から見れば、その「可愛らしいのに、どこか無防備で艶がある」というアンバランスさが、彼女がただのクラスメイトではなく『年上の大人の女性』であることを強烈に思い出させる。
「どうしたの? じっと見て」
「いえ……。今日はいつもと雰囲気が違うなと思って」
「ふふ。……で、どう? 可愛い?」
彼女は少しだけ首を傾げ、悪戯っぽく微笑みながら私を覗き込んだ。
先日、私が『どうせ私は『可愛い』としか言わないですし』と宣言したのを逆手に取った、完璧なキラーパス。
自分が張った予防線で、自ら首を絞めることになるとは思わなかった。
「……ええ。とても似合ってます」
「で?」
どうしても、言わせたくて仕方ないらしい。
「か……可愛いです」
私が呆れたように笑い、東雲さんは満足そうに笑い、私たちは隣に並んで駅へと歩き出した。
ふわりと風に乗って漂ってくる香り。
いつもの石鹸の匂いに混じって、今日はほんの少しだけ甘い、シャンプーかヘアオイルのような香りがした。
***
週末の駅構内は、これから出掛けようとする人達で思いのほか混雑していた。
切符を買ってホームへ降りると、ほどなくして目的の電車が滑り込んできたが、ドアが開いた瞬間、私は少しびっくりしてしまった。
車内はすでに、休日のショッピングモールや行楽地へ向かう乗客でびっしりと埋まっていたのだ。
座席はもちろん空いておらず、私たちはドア付近のわずかなスペースに立って乗り込む事になった。
発車を知らせるベルが鳴り終わり、さらに数人がどっと押し寄せてくると、車内の密度が一気に上がる。
「わっ……」
人の波に押され、バランスを崩した東雲さんの体が、ドン、と私の胸元に押し付けられる。
「っと……危ないですよ」
私は咄嗟に右手を彼女の背後のドア窓枠に突き、押し寄せる乗客の圧から彼女を守るようにして空間を確保した。
私の左手は座席側面の手すりを掴み、結果として私が彼女をすっぽりと腕の中に閉じ込めるような形になった。
ガタン、と電車が発車し、緩やかな揺れが始まった。
私の腕の中で、小さく身を縮めている東雲さん。
……近い。近すぎる。
電車が揺れる度、私の胸板に彼女の華奢な身体が触れる。
頭や肩をトンとぶつけたり、胸の前に持ち上げている手提げが押し付けられたりする。
「今日はリュックじゃないんだな」なんて、そんなどうでもいい事を考えながら、意識を外へ外へと散らしていた。
薄着の季節だからこそ、柔らかい布地越しに直接の体温が伝わってくる。
そして下からふわりと立ち昇る、あの甘い香水と石鹸の混ざった匂いが、逃げ場のない空間で私の理性を容赦なく削り取っていく。
少しでも気を許せば。
今すぐにでも抱き締めてしまいそう。
今日までに培われた完璧なポーカーフェイスの裏で、心拍数はとっくに限界を突破し変な汗までかき始めているが、私はただ静かにドアの窓ガラスの向こうの景色を眺め、凪いだ海のように呼吸を整えていた。
「……結城くん。何か、緊張してる?」
東雲さんの悪戯っぽい声が微かに届く。
視線を下げると、私の腕の中に収まった東雲さんが、いつもの上目遣いになって私を見上げていた。
「……別にしてませんよ。周りの人に押し潰されないように踏ん張っているだけです」
私は淡々とした声で言い放つ。
他に言いようなどない。
「ふーん……?」
東雲さんは面白そうに目を細め、さらに半歩分、私の方へ体を寄せてきた。
ただでさえ密着しているのに、ふんわりとしたブラウスの胸元の隙間や、白くて細い首筋がさらに私の視界に迫る。
三つ年上の小さなお姉さん。
この密着状態でも全く動じないその距離感と色香が、未成年の未熟な自意識をいとも簡単に揺さぶってくる。
「……東雲さん、あんまりくっつかないで下さい。……抱き締めちゃいますよ?」
私の、強がりにしか聞こえない少し踏み込んだ冗談のような脅しに、彼女はくすくすと、心地良さそうな笑い声を漏らした。
「ふふ、ごめん。でも結城くんってこういう時、意外と頼りになるね。それに今日は『デート』なんだから。……抱き締めてみても、良いんじゃない?」
デート。
その単語を、彼女は全く照れることなく口にする。
これが年齢差というやつか、それとも。
私が内心で男としての衝動にパニックを起こしながら、必死に無害な仮面を貼り付けている間に──『私が絶対に線を越えられない』と分かっている彼女は、この状況すらも圧倒的な安全圏から楽しんでいるのかもしれない。
「馬鹿なこと言わないで下さい。そんなこと言っても、私の財布は私の物ですからね」
冗談めかして、しかし半分は本気で牽制のジャブを打つ。
すると東雲さんは、きょとんと目を丸くした後、私の腕の中で肩を震わせて笑い始めた。
「あははっ、何それ! 結城くん、私が服を買わせると思って警戒してたの?!」
「……まぁ、少しは」
「もう、結城くんってば……。安心してください。自分のお財布くらい、ちゃんと持ってます」
彼女は楽しそうに笑いながら、私の胸にコテン、と軽くおでこを預けてきた。
表面上は財布の紐を守るような冗談を口にし、涼しい顔で窓の外を眺めているだけの私。
恋人としての甘い期待を抱くより、財布を狙われていると警戒した方が、私の心はずっと安全なのだから。
──しかし、彼女の額から伝わるその無邪気で柔らかな感触に、私の脳の処理能力はとっくにショート寸前まで追い込まれていた。
やがて車内アナウンスが響き、永遠とも思えた二十分が終わり、電車は目的の駅へと滑り込んだ。
ドアが開き、人の波に乗ってホームに降り立つ。
改札を抜けた先に広がっていたのは、巨大なガラス張りのドームと、どこまでも続く巨大なショッピングモールの入り口だった。
「よし! 到着! 行こっ、結城くん!」
東雲さんは解放されたように飛び出し、陽の光が差し込む煌びやかなエントランスへと歩き出す。
私は密着の余韻で変な汗をかいた首筋を拭い、ショルダーバッグの中の財布の無事を確かめてから、年上の大人の女性の背中を、半ば引きずられるようにして追いかけた。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




