第34話 季節限定メニューなのだから
私は東雲さんを助手席に乗せて、十五分ほど車を走らせた。
幹線道路沿いにある見慣れたファミリーレストランの駐車場に車を停める。
煌々と輝く巨大な看板の下を潜り、自動ドアを抜けると、先ほどまでの自室の静けさが嘘のような喧騒が鼓膜を打った。
グラスの触れ合う音、店員たちの活気ある声、どこかのテーブルで騒ぐ子供の笑い声。
この明るく賑やかな、他人の視線で溢れた空間に入って初めて、私は自分が安全な現実に引き戻された気がした。
一番奥のボックス席に向かい合わせに座り、それぞれ手元にあるメニュー表を広げる。
「うーん、どれにしよ……」
東雲さんはラミネート加工されたメニューのページをパラパラと捲りながら、真剣な顔で悩んでいた。
その無邪気な様子を視界の端に捉えながら、私も自分のメニューに視線を落とす。
しかし私の目はすぐ一枚の薄い差し込みメニューに止まった。
『秋季限定・きのことサーモンの和風パスタ 〜焦がしバター醤油仕立て〜』
少し肌寒くなってきた今の季節の夜に丁度良さそうだった。
私が顔を上げると、ほとんど同時に、パタンとメニューが閉じられる音がした。
「決まりました?」
「うん」
テーブルの端にある呼び出しボタンを押す。
ほどなくして若い店員がやってきた。
東雲さんが、私よりも先に口を開く。
「えっと、私はこの『秋季限定・きのことサーモンの和風パスタ』をお願いします」
その言葉が耳に届いた瞬間、私は思わず「ふっ」と小さく吹き出してしまった。
「え……?」
いきなり笑い出した私を見て、東雲さんが不思議そうに目を丸くする。
「あ、すみません」
私は続けて店員に向けて口を開いた。
「……私も、同じもので」
私の注文を聞いた瞬間、東雲さんはきょとんとした顔をした後、事態を理解したのか堪えきれないといった様子でふふっと吹き出した。
「結城くんも同じの? だから笑ったんだ?」
「……ええ、まあ。まさか同じメニューを頼むとは思わなくて」
「そっか。なんだ、私が選んだから真似したのかと思った」
そう言いながらも、彼女は嬉しそうに目を細め、上目遣いの瞳が、悪戯っぽく私を捉える。
「……ふふ、お揃いだね」
その屈託のない笑顔につられて、私の中の強張っていた部分が少しずつ解けていくのを感じた。
デカデカと推されている季節限定メニューなのだから、誰だって選ぶ確率が高かっただけのことだ。
彼女にとって、私は『安全で都合のいい居場所』に過ぎない。
その冷たい事実が完全に消え去ったわけではない。
けれど『お揃い』というその甘い響きと、メニューが重なったという何気ない一致が、暗く沈んでいた私の心に、わずかでも温かい光を落としてしまったのは紛れもない事実だった。
「……そうですね。お揃いです」
私は諦めたように小さく息を吐き、口元を緩めた。
やがて運ばれてきた『お揃い』のパスタを、私たちは向かい合って食べた。
焦がしバターと醤油の香ばしい匂いが食欲をそそり、和やかな空気の中でフォークが進む。
先ほどの私の部屋での息の詰まるような緊張感が嘘のように、私たちは他愛のない世間話に花を咲かせていた。
けれど、食事が半分ほど進んだところで、私は手元のグラスを飲み干し、強く握りしめた。
今、この場が穏やかだからこそ、伝えなければならない。
もう二度と、私の部屋で彼女の体温に惑わされない為に。
私自身の心と身を守る為に。
私は少しだけ姿勢を正して彼女に向き直った。
「あの、東雲さん。実は一つ、言っておきたいことがあって」
「ん? なに?」
パスタを口に運ぼうとしていた東雲さんが、フォークを止めて不思議そうに首を傾げる。
私は努めて平坦な声を作って告げた。
「十月から、アルバイトを始めようと思ってるんです」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の動きがピタリと止まった。
私を数秒見つめた後、ゆっくりとフォークを下ろす。
「……バイト? 結城くんが?」
「ええ。もう面接も受かってて、来月からシフトに入ることになってるんです」
「そう……なんだ。急だね」
彼女は少し戸惑ったように目を伏せた。
しかし私が彼女に伝えたかった本題はここからだ。
「なので来月からは放課後、今までみたいに毎日一緒に帰ることは出来なくなります。勿論バイトが無い日は別ですけど」
私がそう言い切ると、東雲さんの表情からフッと明るい色が引いたのが分かった。
毎日当たり前のように下校時に私を待ち伏せし、私の部屋で夕方まで過ごしていた「日課」。
それが崩れるという通告は、彼女にとって「安全なシェルターの開放時間が短縮される」という事態に他ならないのだろう。
彼女は手元の水のグラスを見つめながら、不満げに口を尖らせた。
「……そっか。まぁ何をするのも結城くんの自由だけどさ。……ちなみに何のバイト?」
「家電量販店です。商品の陳列とか、レジ打ちとかですね」
「結城くん、パソコンとかゲームとか詳しいもんね。似合ってるかも」
声のトーンを戻した彼女が、グラスの表面についた水滴を指先でなぞりながら上目遣いで聞いてくる。
「……どこの家電屋さん? 駅前のところ? それともバイパス沿い?」
「教えませんよ」
「えっ、なんで?!」
即座に切り捨てた私に、東雲さんが身を乗り出して抗議の声を上げた。
「だって、教えたら絶対冷やかしに来るじゃないですか。仕事中に東雲さんが来たら、やりづらくて仕方ないです」
「そんなことないよ! ただお客さんとして買いに行くだけだもん。別にいいじゃん、減るもんじゃないし……」
「ダメです。絶対教えません」
私が頑として首を縦に振らないのを見て、彼女は「むー」とあからさまに頬を膨らませた。
すっかり不貞腐れている。
普段の大人びた印象からは想像もつかないような、子供っぽい表情。
そのあまりにも分かりやすい態度に、私は呆れるよりも先に、不覚にもまた「可愛い」と思ってしまう。
「……ケチ。私だけ結城くんのバイトしてる姿見れないなんて、なんかずるい」
彼女は小さく呟きながら、フォークでパスタの具材のきのこをツンツンと小突いている。
その姿を見ながら、私の心の中でまた、あの冷たい理性が囁き始める。
彼女が不満なのは純粋に私を求めているからじゃない。
折角手に入れた『いつでも寄りかかれる都合のいい居場所』の開放時間が減らされ、自分のコントロール外の時間が生まれることが気に入らないだけだ。
そう分かっているはずなのに。
場所を教えないと言われて本気で不貞腐れている彼女を見ていると、まるで彼女が私自身のことを独占したがっているかのような錯覚に陥りそうになる。
「……とにかく、十月からはそういうことなので。帰る予定は狂っちゃうかもしれませんけど、了承しておいてください」
「……はーい」
気のない返事をして、東雲さんはまたパスタを口に運んだ。
向かい合わせの席。
さっきまでのお揃いのパスタで喜んでいた和やかな空気は、少しだけ拗ねたような、もどかしい沈黙へと変わっていた。
それでも、私の心は不思議と軽かった。
この歪で息の詰まる日常に、来月から少しだけ新しい「変化」が訪れる。
それが吉と出るか凶と出るかは分からないが、少なくとも、彼女のこの子供のように不貞腐れた顔を見られただけでも、この報告をした価値はあったような気がしていた。
本当、離れたいのか、離れたくないのか。
もう自分でも良く分からないな。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




