第33話 これくらいなら慣れたものだ
放課後。
ホームルームが終わり、帰りの支度を済ませた私が教室を出ようとすると、廊下の壁に寄りかかって待っている東雲さんの姿があった。
「お疲れ様。帰ろっか」
彼女は私が来るのを見つけると、何事もなかったかのように自然な笑顔を向けて、私の隣に並んだ。
下校時に私を待ち伏せする。
これも夏休み明けから始まった、彼女の新しい日課だった。
「……東雲さん、今日は実習室に行かなくていいんですか?」
「うん。今は特に急ぎの課題もないし。……今日はこの前の映画の続き、観てもいいかな?」
上目遣いで、私の表情を伺うように聞いてくる。
前から思っていたが、年上なのに背が小さくて、常に私を見上げるようなアングルになるのは本当にズルいと思う。
しかし、花火大会の夜に私が強引に突き放してしまったからか、彼女の態度は以前よりもどこか遠慮がちで、私の顔色を気にするようになっていた。
それがまた、私の罪悪感をチクリと刺激する。
私は小さく息を吐き、平静の仮面を被り直した。
「……ええ、構いませんよ。この前のが『2』でしたよね? ということは、観たかった『3』がやっと見られるわけですね?」
「やっぱり『1』から見てもらわないとね!」
「別に私を待たなくても、先に見ても良かったんですよ?」
「何言ってるの、こういうのはリアルタイムで見ないと」
「映画のリアルタイムは劇場なのでは?」
「『結城くんと同じタイミング』ってこと!」
「それを言われると、今後勝手に映画を見られなくなります」
「見る時は私も連れてけばいいじゃん」
「東雲さんポップコーンめっちゃ食べそうですよね」
「結城くん食べないの?」
「……食べますけど」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の顔にパッと安堵の色が広がる。
他愛も無い雑談に花を咲かせながら並んで校舎を出て、私達は学校裏の駐車場へと向かう。
そこに停めてあるそれぞれの車に乗り込み、意気揚々とエンジンを掛けた。
私の車が駐車場を出ると、彼女の車もすぐ後ろにピタリとついてくる。
ここから私の家までは、車で約三十分の道のりだ。
ルームミラーを覗き込むと、夕暮れの西日を反射させた東雲さんの車が追走してくるのが見える。
以前、初めて彼女を自宅まで案内した日と同じ光景。
ミラー越しに見える、一定の距離。
離れる事も、これ以上近づく事もないその車間距離が、今の私たちを象徴しているようで、私は乾いた笑みを漏らした。
彼女は私との関係を、これ以上前へ進めようとしているわけではない。ただ、あの日私が突き放したことで失いかけた『都合のいい居場所』を、何がなんでも繋ぎ止めようと必死なだけなのだ。
三十分後。
自宅に着き、少し錆びたボロの車庫にいつものように車を停める。東雲さんも迷うことなく、私の車の前に自らの軽自動車を停車させる。
車を降り、キーのボタンを押す。
ピピッという電子音を背に歩き出すと、東雲さんが小走りで傍に寄ってきた。
玄関へと続く飛び石を、彼女はすっかり慣れた様子で軽やかに渡っていく。初めてここへ案内した時は、ぴょんぴょんと跳ねるように物珍しそうに歩いていたのに。
玄関のドアを開けると、リビングの方から微かにテレビの音が聞こえてくる。
「お邪魔します」
東雲さんは声高に挨拶するわけでもなく、家族の一員であるかのように自然に靴を揃え、私の後ろについて階段を上がる。
今では母も妹も、彼女が我が家にやってくることを日常の風景として受け入れている。寧ろ、私以上に彼女を歓迎している節さえあった。
自室に入り、リュックを床に置いた東雲さんは、羽織っていた浅葱色のカーディガンを脱いだ。
そして、私のデスクチェアではなく、今は私のベッドの縁に当然のような顔をして腰を下ろした。あの頃、椅子の上で小さく体育座りをしていた彼女が、今では私のパーソナルスペースの最も深い場所に、何の迷いもなく入り込んでくる。
東雲さんがそのままゴロンとうつ伏せに転がると、無防備なスカートの裾が少し捲れる。
「見えそうですよ」
「えっち」
「えっちじゃないです」
横に腰掛けた私は彼女のスカートの裾をつまみ、洗濯物のシワを伸ばすかのように、正しい位置へと置き直す。
これくらいなら慣れたものだ。
大丈夫。
私だって年中発情しているわけじゃない。
私は努めて冷静にエアコンのスイッチを入れ、テレビのリモコンのサブスクを開くボタンを押した。
観始めたのは、3作も続く日本の恋愛映画。
私は一度も見た事がなかったので、東雲さんに付き合って1と2を観て、今日やっと彼女が観たがっていた3作目に辿り着いたというわけだ。
薄暗い部屋の中で、二人無言で画面を見つめる。
映画が中盤のロマンチックなシーンに差し掛かった頃、私は画面に視線を固定したまま、隣から伝わる熱を意識の外へ追い出そうと必死だった。
車で三十分も掛けて来て、私の家族にまで受け入れられ、こうして私の部屋で無防備にベッドへ寝転んでいる。
周囲から見れば、どう見ても恋人同士の距離感だ。
しかし、みかん箱さんの呪いが私の頭の中で冷たく響く。
(これは好意じゃない。私はただの、安全な小道具なのだ)
「結城くん」
ふと、隣で彼女が小さく呟いた。
モニターの光が、彼女の横顔を寂しげに照らしている。
映画はまだ途中だ。
「……なんです?」
私が感情を殺した声で短く返すと、彼女は何かを言おうとして、また口を閉ざした。
そして、私の袖をそっと、けれどすがるようにギュッと掴み、再び画面へと視線を戻した。
すぐ隣から漂う甘いシャンプーの香り。
私の袖を握る小さな手の平の体温。
触れたい。
抱きしめたい。
その寂しそうな横顔を自分だけのものにしたい。
(……ダメだ)
私は、自分が思っているほど枯れた人間でも、出来た人間でもなかった。
ただの十八歳の、愚かな男そのものだったのだ。
彼女が私を「絶対に手を出してこない、安全で無害なぬいぐるみ」だと思ってこんな無防備な姿を晒しているのだとしたら、それはとんだ見当違いだ。
前言撤回。
彼女の誘惑に私は全然慣れていない。
このまま彼女の甘い依存に浸り続けていたら、いつか私は衝動を抑えきれなくなり、その細い肩を力任せに押し倒してしまう。
エンドロールが流れ始めた瞬間。
私は弾かれたようにベッドから立ち上がり、部屋のメイン照明のスイッチを乱暴に入れた。
「っ……!」
突然の眩しさに、東雲さんが目を瞬かせて体を起こす。
私は彼女の顔を見ないようにして、足早にドアへ向かった。
「東雲さん。……お腹、空きませんか」
不自然なほど硬い私の声に、彼女は我に返ったようにゆっくりと頷いた。
「うん。少し空いたかも」
「何か食べに行きましょう。ファミレスでいいですか?」
この薄暗くて甘い密室から、一秒でも早く逃げ出さなければならない。
誰の目もある、明るくて騒がしい場所へ。
階段を降りる足音に気づいた母がリビングから「いってらっしゃい」と声を掛けてきたが、東雲さんは「行ってきます」と、まるでこの家の娘のような自然さで応じてみせた。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




