第32話 玉子焼きが好きだったからじゃない
九月上旬。
まとわりつくような夏の熱気は衰えることを知らず、セミの声は未だに強く耳を穿つ。
校舎に逃げ込んでしまえば問題ないが、駐車場から教室まで歩く数分の距離で、身体は不快な汗を流してしまう。
足音を吸い込む無機質なグレーのカーペット。風力を最大まで上げたエアコンの音が響く中、教室には夏休み前と何一つ変わらない喧騒が広がっていた。
「おっす、結城、おはー」
「裕介さん、おはようございます」
「俺、夏の課題、終わったの昨日だったわ。結城は?」
「自分は……早い段階で終わってましたよ」
「出たよ優等生。……あ、そういや、お前! 昨日の花火大会! 行ったんだよな? どうだった? ……何か進展あった?」
『どうだった?』とは花火大会の事だろう。
そして『進展あった?』は恐らく東雲さんの事だろう。
「別に。何もないですね。普通に花火見て帰ってきただけです。とにかく人が多くて。行きも帰りも渋滞で大変でしたよ」
「何だよ、折角のチャンスだったのに。もったいねえ」
「ただ遊びに出掛けただけですから」
クラスメイトとの他愛のないやり取り。
いつも通りのトーン。いつも通りの作り笑い。
変わらない日常に吐き気がした。
……いや。
……『した』というより、あれからずっと『している』。
これはもう治らないかもしれない。
しかし、これで……いい。
何も変える必要なんてない。
私が少し病弱になっただけだ。
彼女の為に生きられない一日がどうでも良く思えてしまう。
きっと、これが恋の病の末期なのだ。
夏休みの間に珍しく女の子と話す機会があったからって、勝手に舞い上がって浮かれていただけの十八歳。
ネットの声に乗せられて、自分も物語の主人公になれるかもしれないなんて分不相応な夢を見てしまっただけの、それこそバグのような出来事。
彼女には彼女を主人公とした人生がある。
私はその人生に登場しなくていい。
あの日、どんな決意を胸に秘めて花火大会へ向かったのか。
あの日、どんな期待とどんな心が無残に打ち砕かれたのか。
そんな滑稽な笑い話を、世界中の誰も知らない。
私が自分の中に仕舞っておけば、私の気持ちなんて、最初からこの世に存在しないのと同じなのだ。
「結城くん、おはよう」
不意に教室の入り口から聞き慣れた声がした。
顔を上げると、そこには見慣れた通学用のロングスカートに身を包んだ東雲さんが立っていた。
「おはようございます」
……ただの挨拶なのに、その他人行儀な響きに、目眩がするほどの虚脱感を覚える。ほんの十数時間前まで、私たちは芝生の上で、寄り添う距離で、同じ空気を吸っていたのだ。
「夏休み、あっという間だったね。二学期もまた宜しくね」
東雲さんはふわりと微笑み、花火大会で食べたクレープの甘さも、夜空を指差した時に重なりかけた指先の温もりも、最初から全て幻だったかのように、彼女もまた完璧な『クラスメイト』に戻っていた。
私が望んだ通りの反応のはずだった。
これでお互い、何事もなかったことに出来る。
これが正解。
それなのに、私の胸は抉られたように痛み続けている。
(……本当に、夏休みなんて無かったみたいだな)
拍子抜けするほどいつも通りの彼女に、私の胸の奥で何かが静かに、そして完全に冷えて固まっていくのを感じる。
定刻になり、先生が教壇に立った。
ぬるりとした空気のまま、二学期最初の授業が始まる。
私もモニターに向かい、画像編集ソフトを開いた。
夏は終わった。
ここからまた平和な日常が静かに幕を開ける。
…………そして、相変わらず気持ち悪い。
***
午前中の授業が終わり、昼休みを告げるチャイムが鳴った。
教室の空気が一気に緩み、あちこちで「飯行こうぜ」「コンビニ行くけど一緒に行く?」といった声が飛び交い始める。
「ほら結城、飯、飯。今日は下で食うぞ」
「あ、裕介さん。自分、さっきの課題をもう少し進めたいので、今日は杉田さんとニ人で行っちゃって下さい」
「は? マジかよ。二学期早々気合入ってんなー。無理すんなよー?」
裕介さんがひらひらと手を振りながら教室を出ていく。
「……ふぅ」
残された私は、小さく息を吐いた。
そう、課題を進めたいなんてのは真っ赤な嘘だ。
昨日の出来事がまだ頭の中で反響していて、まるで万華鏡のように、意識の中をガンガンと乱反射して思考をぐちゃぐちゃに邪魔してくる。
だから次の授業までの間に、少しでも一人の時間が欲しかっただけだ。
本当は今日、学校を休んでしまおうかとも思ったが、部屋に一人で居たら……多分ロクなことにならない気がして、周りの目がある教室へと自分を閉じ込めることで、一人では抑えられないものを無理やり抑え込むことにした。
……しかし結局一人になるのでは意味がないな。
彼が出ていくのを見届けた後、私はパソコンの電源を落とし、ショルダーバッグからイヤホンを取り出す。
その時だった。
「結城くん」
不意に横から声をかけられ、私がゆっくりと振り返ると、そこには東雲さんが立っていた。
両手を後ろに組み、少しだけ上目遣いで私を見つめている。
「……東雲さん。どうしたんです?」
「あのさ、お昼……一緒に食べないかなって」
……一緒に、お昼を?
朝あんなに他人行儀な挨拶も交わして、越えられない昨日と今日の境界線を、あんなにもガリガリと引いたはずなのに。
「えっと……今、裕介さんにも誘われたんですけど……断ったの見てましたよね? 自分、今日は昼休みの間に課題を少しでも進めたくて……」
「でも今、電源落としたよね?」
……痛い所を突いてくる。
「………………その通りです。本当は一人になりたかっただけです。でもまぁ、東雲さんがそこまで言うなら良いですよ。いつものファミレスでも良いです? でも今日は出遅れてしまったので、もう席は空いてないかもしれませんよ? あ、今ならまだ裕介さんに追いつけるかも──」
「ううん、外じゃないの」
東雲さんは珍しく私の言葉を遮るように言い放ち、背中に隠していた両手を私のデスクの上にトンと置いた。
そこにあったのは、淡いピンク色の可愛らしい布で包まれた二段重ねのお弁当箱。
……が、二つ。
「お、お弁当を、作ってきたの!」
思考が真っ白になった。
「だから……ここで、一緒にどうかなって」
………お弁当を? 作ってきた?
昨日の……花火大会の後で?
あんなことがあったのに……?
彼女は私の世界に、
ヒロインとして生まれてきたわけじゃない。
そんなことは分かっている。
「え、あ……こ、ここでですか!?」
教室には何人ものクラスメイトがまだ残っている。
その中で女の子の手作り弁当を二人で食べる?
夏休みが明けて最初の日に?
「せ、せめて誰もいない空き教室とか──」
「ここがいい」
「あ、中庭の公園に確かベンチが──」
「ここがいい」
東雲さんの声は、普段の控えめな彼女からは想像もつかない程はっきりとしていた。
戸惑う私を見て、彼女は少しだけ意地悪そうに目を細める。
「結城くんの好きな卵焼き、味付け甘めにしたりして頑張ったんだけどな。でも要らないなら裕介くんにあげちゃおうかな」
「ま、待って下さい!!」
確かにおかずを一つ貰って「美味しいですね」なんて褒めたことがあったかもしれない。
でもそれは玉子焼きが好きだったからじゃない。
私が嬉しかったのは、
東雲さんが作ったお弁当だから。なのに。
どうしてそんなことも気付けない癖に……。
あなたは私を……。
気付けば私は机から身を乗り出していた。
ガシャガシャと乱反射していた記憶が、砕け散った硝子細工が逆再生されるように、自分のあるべき場所を思い出したかのように、綺麗な形を取り戻していく。
「た、食べます……! 食べさせてください!」
「ほんと?」
「本当です。……ただ、その、周りの目が……」
私が恐る恐る周囲に視線を向けると、残っていたクラスメイトたちが私と東雲さん、そしてお弁当箱を交互に見た。
男子の一人が、隣の友人の肩をポンと叩く。
「……よし、俺らは……今日は下で食うか」
「お、おぅ…………だな!」
わざとらしい笑いを残し、彼らは足早に廊下へと消えていく。
奥の席にいた女子グループも「……なんかお邪魔みたいだね」「行こっか」と、クスクスと楽しげに笑いながら去っていった。
私は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。
「……ほら。今日はみんな外で食べるみたいだし」
東雲さんは満足げに微笑むと、私の隣の席にスッと腰を下ろし、丁寧な手つきでピンク色の包みを解き始める。
「ほら、結城くんも手、洗っておいで。一緒に食べよ?」
その笑顔は、花火の下で見せてくれた涙を堪えるような表情よりも、ずっと力強く、眩しかった。
手作り弁当から漂うほんのり甘い香りが、張り詰めていた冷たい決意を、いとも簡単に溶かしてしまう。
私があの夜に置いてきたものを、
彼女は拾いに戻ったのだ。
……私はゆっくりと立ち上がり、洗面所へと向かう。
その足取りは不思議と今朝までの重苦しさを忘れさせてくれるような気がしたが、忘れていただけで、その足にはまだ、これから一生引き摺っていくには、あまりに重過ぎる足枷が繋がっていた。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




