第30話 私が世界で一番幸せだ
夜空をキャンバスにした光の芸術は、ただひたすらに壮大で、残酷なほどに美しかった。
……赤。
……緑。
……青。
……金。
次々と打ち上がる色鮮やかな火花が、海浜公園の広い水面を鏡のように照らし出す。
視界を覆い尽くすほどの巨大な『しだれ柳』が夜空から降り注ぐたびに、周囲からは割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こった。
隣に座る東雲さんも、空から降ってくる光のシャワーに目を奪われ「わぁ……っ」「すごい……!」と、子供のように感嘆の声を漏らしていた。
その横顔は、提灯の光の下で見た時よりもさらに輝いていて、胸が締め付けられるほど綺麗だった。
けれど、私の心はもう、一歩も底から動くことが出来ない。
どんなに美しい花火を見ても、私の頭の片隅には常に彼の不器用で寂しげな笑顔があり、隣で歓声を上げる彼女の姿にすら、泥棒のような拭いようのない罪悪感を抱き続けていた。
……いや、自分の恋心を美化するのはやめよう。
彼に申し訳ないなんて建前だ。
その実は、醜くドス黒く飛び切りカッコ悪い、生まれて初めての『嫉妬心』。
それに耐えきれない自分の弱さだ。
やがて、夜空を昼間のように明るく染め上げた怒涛のグランドフィナーレが終わり、最後の光が海の向こうへと消え去った。
あとに残ったのは、火薬の匂いと、祭りの終わりのひどく寂しい静寂だけ。
『──以上をもちまして、本日の海浜公園大花火大会の全プログラムを終了いたします。お気をつけてお帰りください』
スピーカーから流れる終了のアナウンスを合図に、魔法が解けたように人々が動き始める。
混雑を避けて足早に駅へと向かう家族連れ。まだ興奮冷めやらぬ様子で騒ぎながら歩く学生たちのグループ。
そして、芝生の上のレジャーシートに残り、祭りの余韻を言い訳にして身を寄せ合い、二人の世界に入り込み始めるカップルたち。
「……終わっちゃったね」
……私はゆっくりと立ち上がる。
「では……帰りましょう。駐車場から出る時にも、かなり時間が掛かりますから」
今日という一日を終わらせる。
その一心で彼女に手を差し出すが、彼女は受け入れなかった。
「え?! あ、ま、待って!」
東雲さんが、弾かれたように私の浴衣の袖口を強く掴んだ。
レジャーシートに体育座りをしたまま、切羽詰まったような上目遣いで私を見上げている。
「もう少しだけ……っ。あの、最後に……露店で何か、食べない? さっきは汚れるからって我慢したけど、最後なら、別にいいかなって。……ね、一緒に、食べよ?」
その声は、どこか震えていた。
少しでも長くここに留まろうとする、不自然な引き留め。
私は、今にも泣き出してしまいそうな心と、全てを吐き出してしまいたい胸の奥のドロドロが混ざり合い、とても何かを口にしたい気分ではない。
それでも、彼女のその懇願するような瞳を前にしてしまえば、断ることなどできなかった。
「……分かりました。では自分が買ってきますので……何がいいですか?」
「あ、うん。えっと……じゃあ、クレープ。甘いやつ」
「分かりました。ここで待っててください」
私は一人で人混みを掻き分け、帰り支度を始めている屋台に並んで、チョコレートとバナナのクレープを二つ買った。
両手にそれを持って戻ると、東雲さんはほっとしたような顔を見せ、隣のスペースをポンポンと叩いた。
私は仕方なく、少しだけ距離を空けて彼女の隣に腰を下ろす。
なのに。
彼女は肩が触れ合う密着した距離にまで、当然のように腰を浮かして座り直してしまう。
──そして私は、ここが地獄だと気付くのだ。
「……美味しいね、これ」
「そうですね」
「花火も本当にすごかった。最後の方とか、空が全部光ってて、まるで夢の中みたいだった」
「流石、関東最大級ですね」
「……夏休みももう終わっちゃうし、もっと結城くんの部屋でダラダラしてたかったな」
「……取りあえず課題が終わって良かったです」
私の口から出るのは、平坦で、当たり障りのない言葉ばかりだった。
次から次へと話題を探し、私を楽しませようとする東雲さん。
けれど、その反応がどれも薄く、会話がすぐに途切れてしまうせいで、彼女の笑顔には次第に焦りと微かな不安の色が混じり始めていた。
私の意気消沈が、彼女に不安を抱かせてしまっている。
その事実がまた私を、罪悪感のナイフで抉る。
早く帰った方がいい。
こんな空虚な会話を長引かせれば長引かせるほど、彼女を惨めな気持ちにさせてしまう。
「……あ、あのね。そういえば、最近面白い動画があってね」
クレープを食べるのも忘れ、私が「帰ろう」と言い出す隙を与えないように、まるで何かに縋り付くように言葉を紡ぎ続けている。
幻想的な提灯の光の下、ただこの時間を終わらせたくない彼女と、これ以上一緒にいることで誰かを傷つけたくない私。
ひどく残酷で、息が詰まるほどすれ違った二人の雑談だけが、祭の終わった芝生の上で、痛々しく虚しく響き続けていた。
***
私たちの間を流れる空気は、冷え切ったクレープの包み紙のように、ただただ固く冷たくなっていた。
「東雲さん、そろそろ──」
「……ねぇ、結城くん」
強い覚悟のようなものを感じた。
私は、言葉の先を静かに待ってしまった。
彼女は小さく息を吐いて、そっと夜空を見上げる。
「花火、本当に綺麗だったよね。でもね、私……花火のある空も、こうやって全部が終わった後の、ちょっと寂しい雰囲気も、どっちも同じくらい好きなんだよね」
彼女の言葉に促されるように私も視線を上げると、さっきまで硝煙に塗れていた空は驚くほど澄み渡り、満天の星が姿を現していた。
「……ねぇ、あの三角形に並んでる星……なんていう名前か知ってる?」
東雲さんは体を乗り出し、浴衣の袖をそっと押さえながら、夜空の一際高い所を指差した。
私は彼女の指の先を追いかけるように、自分もゆっくりと右手を伸ばす。
そして声は夜の静けさに溶けていく。
とても美しく、愛おしい、まるで恋愛小説のようなワンシーン。
暗闇の中で、私の指が、彼女の細い指と重なるような角度で、夜空のたった一点を示す。
一つ。
一つ。
一つ。
星の名前を口にしていく。
一瞬で良い。
この瞬間。
今だけ。
きっと最初で最後の恋心を、私はここに置いていく。
今彼女の隣に居られる、私が世界で一番幸せだ。
そう、思っても良いだろうか。
今日だけは、許されるだろうか。
これから何度、夏を過ごしても。
幾つの出会いが、あるとしても。
その一回を、
一回を……
一回を──
────────────私にくれて、ありがとう。
***
「…………そうなんだ。星……詳しいの?」
東雲さんが星の名前を聞いて嬉しそうに、どこか誇らしげに目を細めて私を見る。
お互いに何かを確信しているような、張り詰めた、けれど最高に甘い余韻。
だけど私には、それ以上を口にする資格がない。
もう見栄を張ったり、彼女に気を遣わせたりするのはやめなきゃいけない。
「……最近よく聴いている曲に出てくるんです」
私は何かを振り切ったようにふっと息を吐き、今日一番の明るい声で笑ってみせた。
「…………ふーん。……ねぇ、それ、なんて──」
さっきまでの張り詰めた甘い空気を、もう思い出の中の出来事だと言い聞かせるように、私はスッと立ち上がり、体育座りをしたままの彼女を見下ろして爽やかに微笑んだ。
「さてと! それじゃあ私たちもそろそろ帰りましょう!」
冷たくしたつもりなんて微塵もない。
ただ彼女を正しい場所へ帰すために、自分の心臓を力一杯握り潰しながら、心から晴れやかに優しく促したつもりだった。
けれど、その瞬間。
東雲さんの顔から、さっと血の気が引いていくのが、薄暗い中でもはっきりと感じられた。
ハッピーエンドを信じて疑わなかったような彼女の大きな瞳が、理解不能な現実を突きつけられたように限界まで見開かれ、宙を彷徨うように震えていた指先が、ゆっくりと、すがりつく先を失って力なく下ろされていく。
「え……あ…………」
東雲さんの唇から、微かな、掠れたような声が漏れた。
私がロマンチックな空気を微塵も感じていなかったかのように、この特別な時間を取り上げようとしているのだと、その絶望的なまでの温度差に気づき、すがるような瞳で私を見上げてくる。
胸が張り裂けそうだった。
今すぐ抱きしめて、嘘だと謝りたかった。
けれど、私はこれ以上大切な時間を奪わないように、出来る限り優しく彼女を促した。
「ほら、今日は下駄と浴衣で疲れたでしょう。早く帰って休みましょう」
「……うん。そうだね。…………………………帰ろうか」
抱え込んだ膝の間に顔を伏せるようにして、彼女は絞り出すように呟いた。
その声は泣き出しそうなほどに、ひどく、ひどく震えていた。
今日という特別な日が、これで完全に終わってしまう。
カラン……コロン……。
後ろからついてくる下駄の音は、さっきまでの楽しげな響きを完全に失い、まるでお通夜の足音のように、重く、寂しく、夜の海浜公園に響いていた。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




