第29話 非日常の魔法
むっとした湿気と潮の香りが混じった、生温い夜風が全身を包み込んだ。
遠くからは微かに、お囃子の音とマイクを通したアナウンスの声が聞こえてくる。
私が車の後ろを回って助手席側に移動すると、東雲さんは少し歩きにくそうに下駄の音を鳴らしながら、すでに外へ降り立っていた。
「……足、痛くないです?」
「うん、大丈夫。ゆっくり歩けば平気」
ふわりと、彼女から普段の石鹸とは違う、香水のような甘い香りが漂った。
薄暗い街灯の下でも、紺色の浴衣と透き通るようなうなじの白さが、目を奪われるほどに美しい。
私は慌てて視線を逸らし「じゃあ、行きましょう」とだけ短く告げて歩き出した。
臨時駐車場から会場へと続く道は、同じように少し離れた場所に車を停めた浴衣姿のカップルや、浮き足立った様子の家族連れでごった返していた。
人混みに流されるようにして歩きながら、私は彼女の少し前を進む。
背後から聞こえる、カラン、コロンという小気味良い下駄の音。
それに合わせて揺れる、彼女の楽しげな気配。
けれど、東雲さんが機嫌良く私の後ろをついてきてくれればくれるほど、胃の奥に沈んだ鉛のような罪悪感は、さらにその重さを増していった。
きっとこの下駄の音を、彼だって隣で聞きたかったはずだ。
この綺麗なうなじを、誰にも見せたくなかったはずだ。
それなのに。
「……」
今日、彼女に想いを伝える。
そのつもりだった。
しかし、その決意は一歩進むごとにボロボロと崩れ落ち、足元の暗いアスファルトに吸い込まれて消えていった。
メインゲートをくぐると、赤や黄色の無数の提灯が頭上に吊るされ、オレンジ色の幻想的な光のトンネルを作り出していた。
ソースの焦げる匂いや甘いベビーカステラの香りが、熱気と共に立ち込めている。
「すごい! こんなに沢山の屋台、初めて見たかも!」
彼女は完全に、この非日常の魔法に掛かっていた。
「……何か、食べます?」
「うん! あ、でも……」
彼女の視線が、イカ焼きやたこ焼きの屋台を往復する。
「浴衣、汚しちゃうと嫌だから……ラムネとか、ベビーカステラとかがいいな」
ブログの仲間たちの警告通りの、完璧なチョイスだった。
けれど今の私には、彼女が浴衣を汚さないように気遣っている様子すら『彼に綺麗に着付けてもらった大切な浴衣だから』という残酷な解釈しか出来ずにいる。
「……分かりました。自分が行って二人分買ってきますよ」
「ううん、一緒に行く。はぐれちゃいそうだし」
そう言って、東雲さんが私の浴衣の袖をちょこんと摘んだ。
指先が触れるか触れないかの、もどかしい距離。
ドクンと心臓が跳ね、顔に熱が集まるのを感じる。
私は緩みそうになる頬を必死に引き締め、人が密集する露店の前へと彼女を先導した。
クーラーボックスの中で冷やされていたラムネの瓶を二本と、焼き立てのベビーカステラの袋を受け取る。
人通りの少ない芝生の端に移動し、私たちはビー玉を落としてラムネを飲んだ。シュワッとした炭酸の刺激が、渇ききった喉を通り抜けていく。
東雲さんは小さなレジャーシートを持参していて、私たちはそこに二人で腰掛けた。
用意が良過ぎる。
私はそんなこと、一つも思い付かなかった。
彼女が私以上に……この花火大会を楽しみに……頭を悩ませてくれたのではないかと……思うと、嬉しくて、悔しくて……今でも涙が溢れそうになる。
「んー……! 美味しい! やっぱり夏はこれだね」
ラムネの瓶を持ったまま、東雲さんが無邪気に微笑む。
「はい、あーんして」
彼女はベビーカステラを一つ摘み、悪戯っぽい笑みを浮かべて私の口元へと差し出してきた。
「えっ、あ、いや……」
「いいからいいから。はい、あーん」
私はその誘惑に逆らうことが出来ず、ぎこちなく口を開けて甘いカステラを頬張った。
蜂蜜の優しい甘さが、口いっぱいに広がる。
……だが、無防備に身を乗り出してきた彼女の背中越しに、彼が不器用な手で一生懸命に結んでくれたであろう帯の結び目が、ふと視界に入ってしまった。
どんなに極上の甘さを味わっても。どんなに隣で彼女が楽しそうに笑いかけてくれても。
この艶やかな浴衣姿も、この甘く奇跡のような空気も、すべては私が今日、身勝手にも『本来の持ち主』から強奪してきたものに過ぎないのだという、ヘドロのような罪悪感が背筋を這い上がってくる。
夜空に吊るされた何百もの提灯の光が、眩しくて、痛い。
私はベビーカステラの味などロクに感じられないまま、ただ空虚な相槌を打ち、時間だけが過ぎていくのをじっと待ち続けていた。
お祭りの醍醐味を凝縮したような時間を過ごしているはずなのに、私の心はずっと分厚い雲に覆われたまま。花火を見るには最悪のコンディションだった。
スマホの時刻は十九時十五分。
二万発の花火が打ち上がり始めるまで、もう少し。
遠くに見える海岸沿いの打ち上げエリアでは、すでにアナウンスの声がせわしなく響き始めている。
「……結城くん、どうかした? さっきから何だか静かだけど」
ふと、隣に座る東雲さんが覗き込むようにして私の顔を見た。
提灯の光に照らされた大きな瞳に、心配そうな色が浮かんでいる。私は慌てて首を横に振った。
「いえ、何でもないです。 ちょっと……まだ気分が良くなくて」
「そっか。ごめんね、無理して付き合わせちゃって」
「そんなことないです! 私はただ……」
言い淀んで、息を呑む。
心配そうに眉を下げる彼女の優しさが、今はただ痛かった。
世の中には、知らない方が幸せな事もある。
知らなければ良かった。
何も知らずに馬鹿みたいに隣に居れば良かった。
それが出来ないということは、私が恋心だと錯覚したものは……きっと何でもなかったのだ。
きっと、その程度のもので、伝えなくても、変わらない。
きっと良くある話。
クラスの友達と花火大会を見に来た良くある学生の話。
それだけの話。
『──皆様、大変長らくお待たせいたしました。これより、海浜公園大花火大会のプログラムを開始いたします』
スピーカーから流れる場内アナウンスが、周囲の喧騒を一瞬にしてかき消した。
その直後。
ヒュルルルルル……………………。
空気を切り裂くような甲高い音が夜空へと昇っていき──。
ドォンッ!!
腹の底を揺らすような重低音と共に、視界の全てを覆い尽くすほどの巨大な光の華が、夏の夜空に咲き乱れた。
「わぁっ……!」
東雲さんが、空を見上げて歓声を上げる。色とりどりの火花が彼女の瞳に反射して、きらきらと輝いていた。
それは私が何日も前から夢にまで見た、花火に照らされる彼女の美しい横顔そのものだった。
二万発の光が彩る、あまりにも残酷で、あまりにも美しい夜。
──絶対に想いを伝えると誓った私の人生を懸けた作戦は、一発目の花火が打ち上がり、夜空に儚く散っていくのと同時に。
誰の耳にも届くことなく、完全に終わりを迎えていた。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




