第28話 人生最初で最後のドア
海浜公園へと続く一本道は、予想以上の大渋滞に陥っていた。
フロントガラスの向こうには、連なる車のテールランプがドクドクと赤く不気味に明滅している。
助手席に座る浴衣姿の東雲さんは、さっきから隠しきれない緊張を持て余しているのか、不自然なくらいそわそわとしていた。
膝の上の巾着袋の紐を指先でくるくると弄ったり、熱っぽい視線を私へ向けてきては、目が合う前にサッと窓の外へ顔を背けてしまう。
……浴衣姿で二人きりの、夜のドライブ。
きっと彼女も、私が何か『決定的な言葉』を告げるのではないかと、ドキドキしながら身構えてくれているのかもしれない。
それなのに、私の頭の中を支配しているのは、あの彼の寂しそうな笑顔だった。
(……どうして私は、あんなにも良い人から、彼女を奪おうとしているんだろう)
ハンドルを握りながら、激しい自己嫌悪が心を真っ黒に塗り潰していく。
私とは違い、彼はきっと何年も前から彼女の隣で、あの笑顔を守り続けてきたはずだ。
それなのに私は、ほんの数ヶ月の浅はかな感情で一人舞い上がり、彼の痛みを踏みにじって、特等席を奪い取ってしまった。
考えれば考えるほど、胃の奥が泥のように重くなっていく。
「道、すごく混んでるね。……でも車の中は涼しいから。快適」
少し上ずった声で、東雲さんがふんわりと微笑む。
……多分、彼女は私が無言で暗い顔をしているから、気を使ってフォローを入れてくれたのだ。
私がまた勝手に責任を感じて、また勝手に距離を取ってしまわないように。
その優しい気遣いが、今の私には劇薬のように効いた。
ハンドルを握る手に、じわじわと冷たい汗が滲む。
東雲さんを可愛いと思う度に。
彼女との距離を縮めようとする度に。
彼の不器用な笑顔が、私の良心を無慈悲に責め立てる。
助手席の彼女には、私が単に渋滞でイライラしているか、あるいは極度に緊張しているようにしか見えなかっただろう。
私は必死に平静を装い、自分の心が今にも千切れてしまわないよう、分厚く無感情な『鉄の仮面』を被り続けた。
これ以上、彼女という甘く残酷な引力に呑まれてしまわないように。
***
本来予定していた海浜公園直結の大型駐車場までは、まだかなり距離がある。
しかし少し先の交差点の角に、手書きで『臨時駐車場 空きあり』と書かれた段ボールの看板を持っている警備員のおじさんの姿が見えた。
そこは予定していた場所よりも随分手前にある、個人経営の砂利敷きの駐車場だった。
「……東雲さん」
「ん、どうしたの?」
「……あ、えーと……ここからだと、まだ会場まで少し歩かなきゃなんですけど……会場に近い所ほど混んでると思うので、まだ駐車場が空いてる内に、どこかに車を停めちゃってもいいですか?」
「あ、そうだね! 停めちゃお停めちゃお!」
東雲さんは、パッと顔を輝かせて頷いてくれた。
その無邪気な笑顔すらまともに直視できず、私は微かに目を伏せながらウィンカーを出し、車を臨時駐車場へと滑り込ませた。
車はジャリジャリと音を立てて白線の枠内に収まる。
……停めてから気が付いた。
今日の彼女は新調したばかりの下駄を履いているのだ。
手前に停めて歩く距離が長くなれば、足が痛くなるかもしれないのに、私は自分の心を守ることに必死で、そんな当たり前の配慮すら抜け落ちていた。
ゆっくりとエンジンを切る。
エアコンのモーター音が消える。
私は一つ、震える息を吐き出した。
……よし、行こう。
今日はもう、気の利いた告白なんてしなくていい。
いや、きっと、してはいけない。
誰かを踏み台にする勇気も資格も私には……ない。
きっと、彼女とこうして二人きりで花火を見るのは、これが最初で最後。
キーを抜き取った私は、夏の夜を押し退けて、ひどく重苦しい、そういう意味で人生最初で最後のドアを押し開けた。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




