第27話 絶望のパズル
カラン、コロン。
乾いた木の音が夕暮れの空気に響き、玄関から東雲さんが姿を現した。
新調したばかりの真新しい下駄は、歩く度に涼やかな音を立てる。浴衣の裾を少しだけ気にしながら小走りで近づいてくる彼女は、夕日に照らされて一枚の絵画のように美しかった。
だが、その美しい光景を映し出しているはずの私の目は、ひどく淀んでいたに違いない。
(……ああ、そうか、そうだよな)
最初から、三人で、行くつもりだったのかもしれない。
頭の中で、絶望のパズルが物凄いスピードで組み上がる。
私はただの『足』代わり。
気の置けない彼と一緒に花火大会へ行くための便利な運転手。
勝手に一人で舞い上がり、私はなんて滑稽なピエロなのか。
二人きりで行こうなんて約束はしていない。
彼女が誰を誘おうと、私が文句を言える立場じゃない。
女の子と一緒に過ごせるだけで感謝しなくちゃいけない。
分かっていたのに、十八年間。
ずっと分かっていたのに、どうして、どうして。
どうして、今日、どうして、ここに来てしまったのか。
早く。早く。早く。早く。早くしろ。
私が私の気持ちに気付く前に。
心なんて埋め立ててしまえ。
……………………………………………………吐き気がした。
「あ、ごめんね! 紹介するね! 彼は幼馴染の神谷くん! 私一人じゃ帯が上手く結べなかったから、無理を言って手伝いに来てもらったの!」
「はじめまして……結城です」
「はじめまして! よろしく!」
彼は喋りながらも玄関に座り込み、ボロボロのスニーカーに足を押し込んで、ドロドロに汚れた靴紐を不器用な手つきで結び直し始めた。
「ハメ外しすぎるなよ。彼氏に変なことされないようにな!」
「ちょっ……変なことって、ばか!」
本気で怒る東雲さんを、彼は「冗談だって」と笑いながら立ち上がる。東雲さんが「彼氏じゃないし……っ」と繰り返し呟いているのが聞こえたが、私の思考回路はそれどころではなかった。
二人の交わす言葉の一言一句が、呪いのようにネガティブな意味へと変換されて脳にこびりつく。
笑顔を保つだけで精一杯で話の脈絡すら理解できない。
アスファルトの熱気のせいではない、胃の奥からせり上がってくる強烈な吐き気に身体はふらふらと揺れ、視界のピントが狂って世界がぐにゃりと歪むような錯覚を起こした。
私は二人の会話に耐えきれず、口元を押さえてその場に屈み込んでしまった。
「ゆ、結城くん?! 大丈夫?!」
「熱中症か?!」
「……ごめんなさい、緊張で……少し車に酔ったかもしれません」
「水飲むか?」
「いえ……大丈夫です」
東雲さんが私の腕を支えるように寄り添ってくれる。
その温もりを……素直に受け止めてはいけないような気がして、胸が引き裂かれそうになる。
「そうか? 無理するなよ?」
「駄目そうなら私が運転しようか?」
「いえ……もう全然、大丈夫なので。道が混む前に行きましょう」
……私は、こんなにも優しく心配してくれる二人に、どんな表情を見せていただろう。
今日を、馬鹿みたいに楽しみにしていた私を、私はどうやって殺せば良い?
引き攣った顔が、醜い嫉妬や憎悪に歪んでいくのを、うまく隠せていただろうか。
『俺の東雲さんから離れろ』だなんて。
頭の中には、刺し違えてでも、この男を排除してしまいたい自分がいる。
いっそのこと気絶ぐらいしてしまえれば良かったのに、私は未練がましく、東雲さんとの時間を諦めきれずにいる自分が一番嫌だった。
「……それじゃあ、俺はそろそろ帰るかな」
「────え?」
私は、帰ろうとする神谷さんの言葉に耳を疑い、これは一体どういうことかと、思わず東雲さんの顔を見上げてしまった。
「これからバイトなんだって」
「そういうこと」
これからバイト?
そんな馬鹿な。ありえない。
私だって男だ。あんな距離感で、こんなに無防備な信頼を向けられている彼だからこそ、自分が丹精込めて着付けた浴衣姿を隣で見たい、一緒に花火を見たいに決まっている。
バイトなんて入れるわけがない。
何なら、刺し違えてでも殺されるべきは私の方なのに。
彼は嘘か本当か分からない理由を並べて、どこか寂しそうに、けれどカラカラと明るく笑ってみせた。
その強がっているような不器用な笑顔が、私の胸を深く、鋭く刺して、その凶器はもう二度と抜けそうにない。
……寂しそうに、強がっているように見えているのは、私だけなのだろうか。
彼女には、その痛みが届いていないのだろうか。
無自覚に彼を呼び出し、着付けだけさせて帰らせる。
東雲さんの無邪気な残酷さが、今はとても恐ろしく思える。
彼がこれまで積み上げてきた時間の重さ。
彼の秘めた切ない恋心を想像したら、私だけ手放しで「やった、二人きりだ」なんて……とてもじゃないが喜べない。
(……これじゃ……彼があまりに……)
「それじゃ結城くん、出発出発」
「え……あ、はい! あ、今ドア開けます!」
私は慌てて自分の車の助手席のドアを開け、彼女が乗り込むのを見届けて、パタン、と静かに閉めた。
「おい」
その時、背後から彼に引き止められるように声を掛けられた。
振り返ると、さっきまでのおどけた態度は消え去っていて、夕暮れの庭の砂利を踏む音だけが妙に大きく響く中、彼はどこか切なげで、それでいて真っ直ぐな瞳で私を見据えていた。
「あいつさ、今日の花火大会、本当にずっと楽しみにしてたよ。着付けしてる間も、そわそわして落ち着きなくて。鏡の前で何度も髪の毛直したりしてさ」
「……」
「最初は学校の愚痴ばっかり聞かされてたけど……しばらく連絡ないと思ったら、今度は惚気話だもんな。ホント……人の気も知らないで、呑気なヤツだよ」
「……………………あなたは……」
……一緒に行かないんですか?
そんな一言も、喉元まで出かかっていたのに、自分のちっぽけなエゴに阻まれて、決して口には出せなかった。
来て欲しくない。来て欲しくないんだよ。
彼女を独り占めしたいと思ってしまう自分がひどく醜くて、また胃の底から吐き気が込み上げてくる。
「……何でもないです」
彼女を独り占めにしたい欲が、私にはもうあったのだ。
それさえも察したからか、呆れたように小さく笑うと「じゃあね、楽しんできて。彼女は任せた」と、私の肩をポンと優しく叩いた。
そして、そのまま振り返らずに、自分の使い込まれた古い自転車へと歩いていく。
ギシッ、ギシッ、と古いペダルを重そうに踏み込む音が、静まり返った夕暮れの空に響く。
ゆらゆらと遠ざかっていくその哀愁を帯びた背中を──私はただ、薄汚い優越感と、それの何倍をも上回る圧倒的な罪悪感を抱えたまま、黙って見送ることしか出来なかった。
手の中にある車のキーが、鉛のように冷たくて重い。
私がどんなに取り繕っても決して踏み込めない、あの二人の長過ぎる歴史。
そんな彼の純粋な痛みを踏み台にして、私だけが彼女と幸せな時間を過ごすなんて、許されるはずがない。
あんなにも真っ直ぐに東雲さんを想っている彼の大切なものを、私が不当に奪い取った泥棒のように思えてくる。
胃の奥で渦巻くのは、逃げ場のない、拭いようのない自己嫌悪だけだった。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




