第26話 とても綺麗だった
夏休みの夕暮れは、どこか魔法めいている。
アスファルトが吐き出す熱気と、遠くで鳴き始めた蜩の声。オレンジ色に染まり始めた空を見上げながら、私はハンドルを握っていた。
この日のために裕介さんに付き合ってもらって新調した、紺色の浴衣。慣れない帯の締め付けが息苦しかったけれど、それはきっと浴衣のせいだけじゃない。
運転席の窓の隙間から入り込む十七時の涼風すら、今日の私の心拍数を落ち着かせてはくれなかった。
今日向かう先は、隣の市にある海浜公園。
関東でも有数の規模を誇るその花火大会は、約二万発もの花火が夜空を彩るという。
渋滞を避けて早めに現地入りするため、夕闇が近づく頃合いを見計らって、私は東雲さんの家へと車を走らせていた。
やがて、見慣れた田園風景の中にぽつんと建つ古い平屋が見えてきた。縁側の風鈴がチリンと涼しげな音を立てているのを聞きながら、敷地内の空きスペースに車を停めようとした私の視界に、ふと違和感が飛び込んでくる。
広い庭先に、見慣れない使い込まれた自転車が停まっていた。
カゴは歪み、荷台やスタンドが赤茶色に錆びている。
近所のおばさんが野菜のお裾分けにでも来ているのだろうか。
嫌いな風習だが、田舎にはよくあることで、私は深く考えずに車を降りて、平屋の木枠の引き戸の前に立った。
小さく深呼吸をしてから、インターホンを押す。
「──はーい!」
チャイムの音に遅れて、スピーカー越しではなく、家の中から直接、少し慌てたような東雲さんの声が聞こえてきた。
「こ、こんばんは! 結城です!」
「結城くん! ご、ごめん! ちょっと手間取ってて……っ。もう少しだけ、待っててくれる?」
パタパタと小走りで移動する足音と、何かを落としたような小さな物音が引き戸の向こうから聞こえてくる。
「大丈夫です! 急がなくていいですから! 車で待ってますね!」
「あ、ううん! すぐ出るから、そこで待ってて!」
いつも教室で大人しい彼女らしからぬ慌てっぷりに、私は思わず頬を緩ませた。
待っている時間すら愛おしい。
玄関先に漂う微かな蚊取り線香の匂いを嗅ぎながら、足元に落ちる夕日に照らされた自分の影を見つめていた。
──そして、数分後。
ガラガラ、と小気味良い音を立てて、木枠の引き戸が開いた。
「……お待たせ。遅くなっちゃった」
その夕日に照らされた彼女の姿から、私は一切の目を離すことが出来なくなった。
紺色を基調とした、朝顔の柄が涼やかに散りばめられた浴衣。
普段は少し重たく見える前髪も綺麗に横へ流され、後ろ髪はうなじが見えるようにふわりとまとめられている。
薄く引かれた口紅が、透き通るような白い肌によく映えていた。
普段の彼女からは想像もつかないほど艶やかだった。
とても綺麗だった。
そんな陳腐な言葉しか浮かんでこない自分の語彙力を恨みたくなるほど、瞬きをすることすら惜しくなる美しさだった。
「いや……全然、待ってないです。その、浴衣……すごく、似合ってます」
絞り出すように伝えると、東雲さんは「ありがと」と、恥じらうように視線を伏せた。
完璧だった。
この日のために練り上げた私の長い長い夏の一日が、これ以上ない最高の形で幕を開けた瞬間だった。
***
──いや。
幕を開けたと『思い込んでいた』。
***
「いやぁ、悪いね、君!」
少し照れくさそうな明るい声。
「俺が着付けに手こずっちゃってさ!」
東雲さんの背中越し、暗い玄関の奥から顔を出したのは、少し日に焼けた純朴そうな顔立ちの若い男性だった。
着古したTシャツにハーフパンツ。
飾り気のない格好。
東雲さんは男を避けるでもなく、どこか呆れたような、けれど完全に気を許し切った無防備な表情で溜息をついた。
ドクン、と。
私の心臓が、さっきまでの高鳴りとは全く違う、冷たくて嫌な音を立てた。
夕暮れの生ぬるい風が急に凍りついたように感じられ、やかましかったはずの蝉時雨が、まるで水の中に沈んだように遠ざかっていく。
私の視界から、美しい朝顔の浴衣も、オレンジ色の夕焼けも、急激にすべての色が失われようとしていた。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




