第25話 東雲さんが部屋にいる生活
「──お邪魔します。いつもお世話になっております」
夏休みに入って一週間。
一階のリビングで私の母親に対し、借りてきた猫のように大人しく挨拶を済ませた東雲さんは、二階にある私の部屋に入ってドアが閉まった途端、ふうっと安堵の息を吐いた。
お世辞にも広いとは言えない私の部屋で、東雲さんは羽織っていた薄手の浅葱色のカーディガンを脱ぐ。
下に着ていたのは、肩口が露わになった涼しげなノースリーブのトップスだ。
そして「失礼」と小さく呟いてから、当然のように靴下を脱いで素足になると、私がいつも使っている座椅子にすっぽりと収まり、ちょこんと膝を抱え込む体育座りの姿勢をとった。
体育座りをしたことでスカートの裾から覗く白い素足や、華奢な肩からどうしても目が逸らせなくなる。
……と、過剰に意識していたのも最初だけで、毎日のように続くと意外と慣れてくるものである。
彼女が私の部屋に入り浸るようになったのは、終業式の日の何気ない会話がきっかけだった。
今年の夏休みの課題は、通販雑誌のページデザインという企業と提携した実習コンペ。
一人何ページ提出しても自由で、採用されれば報酬が出るというものだ。
「これ、夏休み中に何ページ作れますかね?」
そう私がこぼしたところ、彼女が「……ねぇねぇ。……それ、一緒にやらない?」と提案してきたのだ。
最近、いつもこんな感じだ。
ただ東雲さんは私の家族の前では極端に大人しくなってしまう為、一度部屋に入ると基本的には帰るまで一歩も外には出ようとしない。
トイレに行くタイミングさえひっそりと見計らっているくらいなので、当然リビングやキッチンに降りていくこともなく、彼女はずっと私の部屋だけでくつろいでいた。
「結城くん、お昼どうする? 私コンビニでパン買ってきたから、ここで食べてもいい?」
「あ、はい。じゃあ自分、下から冷たい麦茶と、昨日の箱アイスが残っているので持ってきますよ」
「ほんと? わーい」
昼食には外食か、もしくは買ってきた軽食を二人で食べる。
食後の休憩時間になると、彼女は私のベッドの上に移動し、体育座りのままスマホで見逃し配信のドラマを見始めるのがいつもの流れだ。
「結城くん、このドラマの主人公ね、すっごく不器用なんだけど……あっ、ごめん、作業中だよね」
「いえ、大丈夫ですよ」
東雲さんはイヤホンを片耳だけ外し、画面を見つめながらクスクスと笑ったり、時にはハラハラしたり、息を呑んだりを繰り返している。
学校での、周囲の目を気にして私の後ろを三歩下がって歩くようなもどかしい日々と比べると、今の東雲さんが本来の『素』なのかなと、私は少しだけ嬉しく思う。
……自惚れかもしれないけれど。
***
「ねえねえ、ここの余白の取り方なんだけど、どう思う?」
彼女は座椅子から立ち上がって、私が座っている椅子のすぐ背後までやってきた。
ノートパソコンを持って「これ」と、わざわざ画面を見せにくる彼女が可愛い。
ふわりと漂う、お気に入りの石鹸の清潔な香り。
傷一つ無い素肌が微かに触れそうになったりする。
髪は割とボサボサなのに、肌はとても綺麗で、東雲さんは何事においても気を使う場所が極端に偏っている気がする。
ここだけは外せないポイントみたいなものがあり、課題でも一本、絶対に動かしたくない軸を作ってから、それを中心にアイデアを広げていったりするのだ。
「……ここのキャッチコピーを少し小さくして、右寄せにしたらどうです?」
「あ、確かに。ありがと。そうする」
彼女が至近距離で無邪気に笑う。
西日が差し込む部屋の中。
座椅子の上で丸くなりながらマウスを動かしていた東雲さんが、キリが良くなったのか、少し寂しそうな声をあげた。
「……結城くん。このページが終わったら、取りあえず私の目標枚数は終わりかも」
「……そうですね。自分も、あと少しで終わります」
目標が終わる。
それはつまり『東雲さんが部屋にいる生活』が、一旦終わることを意味している。
部屋の中に妙な静寂が落ちた。
私の頭の中にも、そしてきっと彼女の頭の中にも、この先に控えている一つのイベントが浮かんでいたはずだ。
夏休みの終盤に控えた、花火大会。
正直それしか考えられなくて、課題に集中するのは至難の業だった。
「……そ、そういえば! この間近所のスーパーにも、花火大会のフライヤーが置いてありましたよ」
私は引き出しを開く。
ペラっとしたチラシは表がカラーで、裏がモノクロ。ツルツルとした紙に、夜空に咲く沢山の花火が印刷されている。
東雲さんに手渡すと、興味深そうに表と裏を見比べた。
「……私、これ、近くまで見に行ったことないんだよね。家からも見えるから、友達を呼んだり、友達の家に行ったりはしたけど」
「私も女子と二人で行くのは初めてです」
「……楽しみ?」
「それは……まぁ」
「デートだもんね」
「……デートでは、ないです」
そう、これはデートではない。
断じてデートではないのだ。
私は暴れ出しそうになる心臓をなだめるように、呪文のように頭の中で繰り返した。
そうでもしないと、目の前で無防備に笑う東雲さんを意識し過ぎて、自分の頭がおかしくなってしまいそうだったからだ。
「……でも、二人きりならデートじゃない?」
「……」
……私には、答を口に出す勇気もない。
「……あ、もうこんな時間」
東雲さんがパタパタと荷物をまとめ始める。
私は名残惜しくも、その様子をホッとしたように眺めていた。
階段を降り、薄暗い玄関へと向かう。
ゆっくりとした動作でスニーカーを履いた彼女は「じゃあ……また明日ね」と小さく手を振ってドアの向こうへ消えていった。
バタン。
と、ドアが閉まり、一人きりになった玄関。
石鹸の甘い香りだけが、微かに残されている。
言葉にしなくても、二人の間にある『約束の日』の空気感だけは、甘く、痛いほどに張り詰めていた。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




