第24話 線を引いて安心するな
シュッ、シュッ、と小気味いい音が実習室のあちこちから聞こえてくる。
カッターナイフで鉛筆の木を削り、芯を長く露出させる。芯を一センチ近く剥き出しにしないと、寝かせて広い面を塗ることが出来ない。私はもう随分と上手くなった。
……削るのだけは上手くなった。
今日の授業のモチーフは、白い石膏の幾何学模型と、ガラスの空き瓶、そしてゴツゴツしたカボチャだった。
「質感の違いを意識してね」
デッサンは私が思っていたよりもずっと肉体労働だった。
私はイーゼルの前に座り、右手を真っ直ぐ前に突き出した。鉛筆を縦に持ち、片目を瞑って、カボチャの縦横の比率を測る。
傍から見ると怪しいポーズだが、これは測り棒と呼ばれる技法で、こうして基準を作らないと、カボチャがラグビーボール並みに巨大化したり、ガラス瓶がピサの斜塔のように傾いたりする。
描き始めて三十分。
早くも私のキャンバスには、不穏な空気が漂っていた。
4Bの柔らかい鉛筆でカボチャの影をゴリゴリと執拗に塗り重ねていたのだが、出来上がったそれはどう見ても瑞々しい野菜などではなく、未知の黒い隕石が圧倒的な質量で机にめり込んでいるようにしか見えなかった。
必死にねりけしで画面を叩いていると、隣からフッと鼻で笑う声がした。
「おい結城。お前のカボチャ、何か怨念こもってない?」
裕介さんの絵を見ると、ガラス瓶のハイライトの残し方など、いかにも手慣れた感じで少し悔しい。
「力入れ過ぎなんだって。もっと鉛筆の重さだけで滑らせろよ」
「……そんな事言われても」
「ギターの弦と一緒だぜ?」
「……それ本当です?」
私は2Hの鉛筆に持ち替え、ガラス瓶の輪郭線を薄く追った。
「──結城くん、ちょっといいかしら」
背後から先生が私のキャンバスを覗き込んでいた。
「線に迷いが出てるわね。特にガラス瓶。輪郭線をはっきり描き過ぎ。現実の世界に黒い輪郭線なんて存在しないでしょ? 物体と物体の境界は、色のコントラストと光の当たり方だけで出来ているの。線を引いて安心しようとしちゃダメ」
「頭の中で都合よく解釈して描いちゃダメよ」と先生は言い残して去っていった。
『線を引いて安心しようとしちゃダメ』
その言葉が、何故かとても印象に残った。
「……」
私は小さく溜息をつき、一旦手元の鉛筆をイーゼルの溝に置いた。
行き詰まった時は、他人の絵を見るのが一番の特効薬だ。
丸椅子から立ち上がり、凝り固まった首に手を当てて回す。
ここは普段キーボードを叩いている教室とは違い、机が一切ないだだっ広い部屋、実習室だ。
コンクリートの床には歴代の生徒たちがこぼした絵の具の染みが無数に散らばり、部屋の中央に置かれたモチーフ台を囲むように、幾つものイーゼルと丸椅子だけが円状に配置されている。
私は気分転換がてら、他の生徒のイーゼルの後ろを静かに歩きながら回り始める。
やがて、少し離れた位置からモチーフに向かっている見慣れた背中を見つけ、その足をとめた。
……東雲さんだ。
背筋をスッと伸ばし、真剣な眼差しでキャンバスに向かっている。その視線の先をそっと後ろから覗き込んだ瞬間、私は思わず息を呑んだ。
私の生み出した黒い塊とは次元が違う。
黒い輪郭線なんてどこにも存在せず、光と影のグラデーションだけで、ガラス瓶の透明感やカボチャのゴツゴツとした重みが見事に浮かび上がっている。
まるでモノクロ写真のような出来栄えだった。
「……あ、結城くん。びっくりした」
「すいません。あんまり上手くて、つい見入っちゃいました」
「……私なんて全然だよ。結城くんはどう?」
「自分はもう絶望的です。カボチャが隕石になりかけてますし、先生には『線を引いて安心するな』って言われました」
東雲さんは口元に手を当てて小さく笑い声をこぼした。
「『線を引いて安心するな』か。……デッサンって、結局のところ『観察』だからね。自分の思い込みを捨てて、目の前にあるものを、ただありのままに受け入れる。……言うのは簡単だけど、難しいよね」
思い込みの線を捨てて、目の前のありのままを受け入れる。
その何気ないアドバイスは、デッサンの枠を超えて、臆病な私の心に深く突き刺さった。私が勝手に『自分なんか』と境界線を引いて安心していただけで、世界は、そして人との距離は、もっとシンプルで温かいものなのかもしれない。
「…………東雲さん」
「ん?」
「その……今度の花火大会のことなんですけど」
私は実習室の静寂に紛れるように、少しだけ声を潜めた。
「もし東雲さんが嫌じゃなければ、浴衣……着てみませんか? 自分は着ていくつもりだったんですけど、自分だけ気合が入ってたら恥ずかしいかも……とか思っちゃって」
ストレートな言葉を選んだ。
ありのままの言葉だけを伝える。
東雲さんは、ねりけしをこねる指の動きをピタッと止め、スッと視線を足元へと落とした。
彼女の白い横顔が、じわじわと耳の先まで赤く染まっていくのが分かった。
「……っ、うん。その、折角のお祭りだし、私も着ていきたいなとは、思ってたのだけれど。……結城くんも、着てくれるなら、すごく嬉しい」
照れ隠しのように俯きがちに紡がれたその言葉に、私の胸の中にあった重たい雲が嘘みたいにすっと晴れていった。
自分がいかに単純な人間なのかが良く分かる。
もっとスマートに、大人の余裕を持って立ち回りたいのに、嬉しいことも辛いことも顔には出さないが、内なる感情は彼女の一挙手一投足にガチガチに囚われてしまっている。
「本当です? ……良かった。じゃあ、お互い浴衣で行きましょう」
「……うん。約束」
顔を上げた東雲さんが、はにかむように微笑んだ。
そして、照れを誤魔化すように、鉛筆を持っていた手で自分の頬を掻こうとした瞬間──。
「あ、東雲さんストップ」
「えっ?」
「指、鉛筆の粉で真っ黒ですよ。そのまま触ったら頬に影が入ります」
「うわっ、本当だ……。気付かなかった」
私はポケットからスッと、昨日忍ばせたばかりの携帯用ウェットティッシュを取り出して手渡した。
「はい、これ使ってください」
「あ、ありがとう……。結城くん、準備がいいね」
「まぁ……マニュアル通りというか……」
私が小声で誤魔化すと、彼女は不思議そうに小首を傾げながら、丁寧に指先を拭いた。
私が頭の中で勝手に思い描いていた不安の線を、完全に消し去ってくれる柔らかな時間だった。
周りを見渡すと、私と同じように息抜きで席を立ち、他の人の進み具合を眺めて回っている生徒がちらほらといる。
実習室には、鉛筆の擦れる音と、時折交わされるひそひそとしたアドバイスの声だけが穏やかに響いていた。
「では、自分もそろそろ、あの隕石と決着をつけてきます」
「ふふっ、頑張ってね。……後で私も見に行っていい?」
「えっと……もう少しマシになってからお願いします」
東雲さんの悪戯っぽい微笑みに背中を押されながら、私は自分のイーゼルへと戻った。
丸椅子に座り直し、再び4Bの鉛筆を握る。
目の前のカボチャは相変わらずゴツゴツしていて、私のキャンバスの上ではまだ真っ黒な塊のままだ。
けれど、さっきまで感じていた息苦しさは不思議ともう無くなっていた。
「……よし」
私は一度、濃すぎる影をねりけしでトントンと優しく叩いて明るさを取り戻した。
思い込みの線を消して、もう一度、フラットな目でモチーフを観察する。
ここからまた、少しずつ光を描き足していけばいい。
シュッ、シュッ、と鉛筆の音が実習室に響く。
夏休み前のデッサンの授業。
私のカボチャは、少しだけ、ほんの少しだけ、本物のカボチャに近づいたような気がした。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




