第20話 脳の処理速度が上がりそう!
週末の早朝。
私はお馴染みの瑠璃色のコンパクトカーのハンドルを力強く握りしめ、ガチガチに緊張しながら国道を走っていた。
初心者マークを前後に貼り付けた車の助手席には、私服姿の東雲さんが当たり前のように座っている。
いつもは動きやすい服に浅葱色のカーディガンを重ねていることが多いが、今日はふんわりとした白いブラウスに、淡い色合いのロングスカートを合わせていた。
彼女が動く度に、シャンプーと微かな香水の匂いが、車内の密閉された空気にふわりと漂ってしまう。
(……落ち着け。これはデートじゃない)
心の中で何度も謝罪のリハーサルを繰り返すものの、いざ口を開こうとすると、隣から伝わってくる彼女の体温や衣擦れの音に意識を持っていかれ、どうしても言葉が喉の奥でつっかえてしまう。
「……結城くん、肩に力が入り過ぎているよ? もう少しリラックスしないと、目的地に着く前に君のバッテリーが切れてしまう」
私の頑なな沈黙をどう受け取ったのか、東雲さんがくすりと笑いながらダッシュボードのナビを指差した。
「次のインターチェンジの近くに道の駅がある。そこで一度、クールダウンしよう」
言われるがままに立ち寄った県境の道の駅は、週末という事もあって中々の賑わいを見せていた。
車を降りて初夏の風をいっぱいに吸い込むと、緊張で石のように強張っていた背中が、少しだけほぐれるのが分かった。
結局、車内という究極の密室にいても、私のヘタレ具合は何も変わらなかったらしい。
「せ、折角だし少し見て回ります?」
「賛成。ローカルな市場も道の駅の醍醐味だね」
私たちは地元の農産物が並ぶ直売所を冷やかして歩いた。
東雲さんは、不揃いな形をした泥付きの野菜たちを興味深そうに観察している。
「結城くん見て。このトマト、歪だけど規格外の生命力を感じる。完全な球体よりもデザインとしての情報量が多いね」
「東雲さん、野菜を見る時もクリエイター目線ですね」
クスッと笑うと、彼女は少し照れたように「職業病みたいなものかな」とそっぽを向いた。
その後、ご当地のミルクソフトクリームを二つ買い、外のベンチに並んで座った。
初夏の陽気の中で冷たいソフトクリームを頬張る。
「ん……このミルク、濃厚で……脳の処理速度が上がりそう!」
「ふふっ、美味しいってことですね? それは良かったです」
穏やかな風が吹き抜け、彼女の横顔にかかった髪を柔らかく揺らした。
楽しそうに目を細める表情があまりにも無防備で、私は思わず見惚れてしまう。
……早く伝えなければいけないのに。
傷付けてしまったことを、ちゃんと言葉にして謝らなければいけないのに。
まるでデートのような折角の時間を、自分の手で壊してしまうのが怖くて、ただただ怖くて。
私は逃げるように、静かにソフトクリームを口に運んだ。
***
ナビの案内通りに車を進め、私たちは遂に、隣の県の市民ホール周辺へと到着した。
地方都市のランドマークにもなっている施設は、想像していたよりもずっと巨大で立派な建物だった。
煉瓦のような外壁が、初夏の太陽の光を浴びて鈍く紅色に輝いている。
「……もっと学校の体育館みたいな場所でやるのかと思ってました。大劇場ですね」
「かなり歴史のありそうな建物だね。あ、あそこから駐車場に入れるみたいだよ」
広大な駐車場に車を滑り込ませ、エンジンを切った瞬間に、二時間運転しきった安堵と、心地良い疲労感が押し寄せてくる。
車を降りてホールの外壁に近づくと、そこに『第32回 地区演劇大会』と大きく書かれたポスターを見つけた。
「ありました。これですね。何だか……ちゃんと準備されている様子を見ると、いよいよ始まるんだなって感じがします」
「そうだね。私たちは言わば素人なんだから、今日までを本気で取り組んできた人たちに敬意を払わないと」
東雲さんは一際優しく微笑んでいた。
ホールの中に足を踏み入れると、ひんやりとした空気に混じって、木の種類なんて分からないが、兎に角古い木の香りがした。
高い天井、磨き上げられた大理石の床。
普段通っている学校の無機質な空気とは全く違う、非日常的な劇場の匂いに、自分が出るわけでもないのに何故か緊張で背筋が伸びる。
「これは……内装も豪華ですね」
「機能美と情緒が、絶妙なバランスで共存しているね」
「でも相手は高校生です。そんなに期待しないでおきましょう」
「薄情なやつだな、君は」
私たちは窓口で当日券を購入し、一緒に渡されたプログラムのページをめくりながら、会場の扉をくぐった。
客席はまだ疎らだったが、最後列近くの並びの席が空いていたのでそこに腰を下ろした。
前の方には、審査員が座るのかもしれない席が見える。マイクや書類が置かれた長机があり、いかにもオーディション番組とかで審査員が座っていそうな席だった。
「ええと、友達の劇は……あ、これですね」
プログラムの一点に指を落とす。
「その友達から聞いているのは、劇のタイトルだけなんです。ネット上でのやり取りでしたから、個人情報になる学校名なんかは伏せていて」
「正しいネットリテラシーだし、君を誘うくらいなんだから劇も自信作なのかもね」
「私は面白くなかったら、面白くなかったって言いますけどね」
「そうかな?」
「……そうですよ」
私は強がりのつもりだったが、私のヘタレ加減が、すでに彼女にはバレている気がしないでもない。
やがて会場が埋まり始め、照明がゆっくりと落ちていく。
暗闇の中で、隣に座る東雲さんの気配が、いつもよりずっと近くに感じられた。
この閉ざされた空間で、何時間も肩を並べて同じ物語を見る。
その事実だけで、胸の奥が少しだけ熱くなった。
***
次々と学校が入れ替わり、いよいよベストさんが所属する演劇部の出番がやってきた。
彼女達の舞台は、一言で言えば『極上のコメディ』だった。
難解なテーマや哲学的なセリフ回しはほとんどなく、女子高生らしい等身大のキャラクターたちの勘違いが交錯し、テンポの良い掛け合いで笑いを取っていく。
会場中から何度も大きな笑い声が上がり、私も東雲さんも、気づけば肩を揺らして笑っていた。
舞台の上で生き生きと駆け回る学生たちはキラキラと輝いていて、私の目には、今日のどの劇よりも魅力的で素晴らしい作品に映った。
──しかし。
全演目が終了し、審査員たちによる結果発表の時間が訪れる。
優秀賞や最優秀賞として読み上げられた学校の中に、何故かベストさんたちの名前はなかった。
選ばれたのはシリアスで、言いたいことのよく分からない悲劇ばかりだった。
パチパチと義務的な拍手が鳴り響く中、私の胸の中には、黒くドロドロとした熱い感情が渦巻いていた。
(……なんでだよ)
『分かる人間にだけ分かれば良い高尚な芸術』に、一体どれほどの価値があるというのか。
あの場で一番多くの観客を笑顔にし、心から楽しませていたのは間違いなく彼女たちのコメディだったじゃないか。
私たちはデザイン学科で、独りよがりではない『大衆に届けるための表現』を日々学んでいる。
自分自身が空っぽだからこそ、他者に寄り添い、純粋に楽しませようと汗を流すベストさんたちの作品が、私にはあのしかめっ面の審査員たちが選んだ悲劇よりも、ずっと、ずっと眩しく見えたのだ。
立ち上がって、あのしかめっ面の審査員たちに文句の一つでも言ってやりたい気分だった。
膝の上で強く握りしめた拳は、爪が手のひらに食い込んで鈍い痛みを訴えている。
「……結城くん?」
ふいに隣から不思議そうな声がした。
私はハッと我に返って拳を解き、その感情を心の奥に仕舞い込んだ。
「……なんでもないです。想像よりちゃんとしてて、何だか感動しちゃいました」
今は隣に東雲さんがいる。
ここで機嫌を損ねて、折角の空気を壊すわけにはいかない。
「……行きましょう。ロビーでベストさんたちが待っているかと」
「うん」
立ち上がった東雲さんは、私の手元──爪の跡が僅かに残った手のひらをそっと見つめてから、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「私は彼女たちの劇、とっても楽しかったよ?」
私の強がりなど彼女にはお見通しだったらしい。
その真っ直ぐな肯定に、胸の奥の黒い感情がスッと溶けていくのを感じながら、私は拍手の余韻が残る客席を後にした。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




