第10話 三十歳という大人の余裕
バドミントン大会当日。
梅雨空の隙間から時折覗く薄日が、市営体育館の天窓から差し込んでいる。
「えー、本日はあいにくの天気ではありますが、日頃の運動不足を解消し、学科間の交流を深めるべく──」
校長先生の穏やかな挨拶がスピーカーから流れる中、フロアには学生たちが各学科ごとに整列していた。
私たちの通う専門学校は、駅前の大通りに面した五階建てのビルキャンパスだ。
一階は職員室、二階に私たちの『デザイン学科』があり、三階は『プログラム学科』、四階には『医療事務学科』、そして最上階には華やかな雰囲気の『ブライダル学科』が入っている。
「おい、もしかして俺たち優勝狙えるんじゃねぇか? ブライダル学科なんて全員女子のクラスだろ? 体力だけで押し切れそうじゃね?」
私の後ろに並ぶ裕介さんが、少し離れた場所にいるブライダル学科の生徒たちを見て、やけに楽観的な声で話しかけてきた。
「私たちだってモニターの前に座っているだけですよ」
「結城! こういうのは気持ちで負けてたら勝てないぞ!」
「そんなこと言われても事実ですから」
「人が……人が、多い。ウチの生徒ってこんなに居たんだね……」
熱く燃える裕介さんとは対照的に、私の前に立つ東雲さんは、持参したパステルカラーの細い水筒を両手で固く握りしめ、周囲の熱気に当てられたように小刻みに震えていた。
ダボッとした指定ジャージに身を包んだ彼女の小さなポシェットには、先日名付けられたばかりの虚無顔のカエル『阿』と『吽』が、お守りのようにピッタリと連れ添っている。
「東雲さん。あまり周りを見過ぎない方が良いですよ。ほら、深呼吸、深呼吸」
「すぅー、はぁー……」
私が宥めると、彼女は素直に息を吐いた。
そんな他愛のない会話を交わすうちに開会式が終わり、私たちは体育館の壁際に貼り出された巨大なトーナメント表へと向かった。
「結城と俺は午後からみたいだな。第二コートの第三試合だ」
裕介さんが指で線を辿る。
「東雲さんと杉田さんは……あった、第三コートの第一試合。デザイン学科のトップバッターですね!」
「トップ、バッター……っ?」
東雲さんが絶望と共に息を呑み込む横で、杉田さんが「まずは手首のストレッチから始めましょう。パン生地を優しくこねるイメージです」と、彼らしい元料理人特有の独特なアドバイスを送っていた。
***
試合開始のホイッスルが、体育館に高く鳴り響く。
私と裕介さんは、観客席から東雲・杉田ペアの様子を見守っていた。
対戦相手は医療事務学科の女子ペア。
先に十点入れた方が勝ちという分かりやすいルール。
しかし、相手のバドミントンは驚くほど鉄壁だった。
コートを広く使い、杉田さんの強い打球を上手く凌いでは、的確な場所に返してくる。
「ひゃうっ……! き、きました……っ!」
前衛に配置された小柄な東雲さんは、飛んでくるシャトルの軌道に全く目が追いついておらず、「えいっ!」と目をギュッと閉じたまま、祈るようにラケットをブンブンと振り回している。
ブンッ、とシャトルが通り過ぎた後で空を切るその姿は、決して器用とは言えなかったけれど、一生懸命さだけは痛いほど伝わってきた。
「東雲さん、そのまま頭を下げていてください」
後衛の杉田さんが静かな声と共に踏み込み、東雲さんの頭上をすり抜けるシャトルを、柔らかな手首の返しで打ち返す。彼が厨房で鍛えられた体幹を活かしてコートを縦横無尽に駆け回り、必死にラリーを繋いでいた。
しかし、正確な返球を続ける相手ペアの前に、少しずつ点差が開いていく。
杉田さんの強い打球も、向こうは二人掛かりで分担できるが、こちらは東雲さんを狙われると一溜まりもない。
そして最後は、東雲さんが何とか打ち返そうと大きく踏み出した瞬間。
きゅっ、とシューズが鳴ったかと思うと、彼女の勇気は空回りし、足がもつれて床に転倒してしまった。
それを見逃さなかった医療事務学科は、倒れた彼女の目の前に、残酷にもシャトルをポンと落としてみせた。
ピーッ!
試合終了のホイッスルが、少しの寂しさを伴って響く。
コートの隅で、東雲さんが力なく肩を落とした。
息を切らした杉田さんは、床に座り込んだ彼女に真っ直ぐ歩み寄り、そっとスポーツタオルを差し出した。
「お疲れ様でした、東雲さん。僕のカバーが少し足りませんでしたね」
「い、いえ……! ……体が全然追いつかなくて……ごめんなさい。……やっぱり私は後ろで隠れてて、全部杉田さんに任せれば良かったです」
前髪の奥から悔しそうな表情を覗かせる彼女に、杉田さんはふっと柔らかく微笑み、ぽん、と労うようにその頭に軽く手を置いた。
「何を言うんです。東雲さんが必死にシャトルを追う姿、見ていて僕も熱くなりましたよ。折角同じクラスになれたんですから、今だからやれること、どんどん参加して、楽しんで、一つ一つ思い出にしていきましょう。あなたとペアを組めて良かったです」
杉田さんの穏やかで大人な言葉に、東雲さんは少し目を丸くした後、どこか救われたように「はい……」と小さく頷いた。
「……」
観客席からその様子を見ていた私は、胸の奥がざわつくのを感じていた。
落ち込む相手にあんなに自然に温かい言葉をかけられること。
彼女の表情を和らげたのが自分ではないこと。
自分は指先が触れただけであんなに動揺していたのに、ごく自然に彼女の髪に触れられること。
そして何より、三十歳という大人の余裕の前に、十八歳の自分がひどく子供っぽく感じてしまったこと。
手すりを握る手に、無意識にギュッと力が入る。
胸の奥をチクリと刺したこの名付けようのない痛みを、ただの『寂しさ』だと強引に自分に言い聞かせるように。
私は痛む胸から逃げるように、微笑み合う二人からスッと視線を逸らしてしまった。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




