医師として必要な物 後編
「お待ちなさい」
部屋のふすまが開き、トクシンが姿を現した。突然のことに獣人は動きを止め、後ずさった。
「先生」
「チセ、無事ですか」
「はい。ですが鎮静剤を打てなくて」
「鎮静剤ですか」
トクシンはチセが手に持っていた注射針を一瞥し、そしてすぐにそれをチセから取り上げた。
「先生いったい何を」
「そろそろと思ってましたが、やはりこれは難しかったようですね」
トクシンは、手に取った注射針を一緒に持ってきたお盆の上に置いた。
「先生、それではあの患者を」
「いいですかチセ、良い機会です。これからあなたに大事なことを教えます」
トクシンは注射針を置いたお盆から香炉を手に取ると、その中の植物に火をつけた。
「先生、何を」
「いいから見てなさい」
トクシンは煙を漂わせる香炉を持って一歩ずつ獣人に近づいた。
「貴様、何をするつもりだ」
「いいえ、私は何もしません。ただあなたに安静にしていてほしいのです」
「なんだと」
「先ほどあそこにいる女の子、名をチセと言います。私の一番弟子で、それなりの医術があります。あなたの怪我もすべて彼女が治療しました。ですが」
トクシンと獣人はもはや目と鼻の先ほどの距離まで近づいており、万が一攻撃されれば間違いなく致命傷になり得る間合いだった。
「先生、危ないです、離れてください」
「一つ見落としがありましたね」
トクシンは香炉を手のひらに置くと、もう片方の手で相手の手首をつかんだ。そして毛をゆっくりと動かすと、その陰から、複数の小さなあざが姿を現した。
「突然暴れだしたとのことでもしかしてと思ったのですが、やはりそうでしたか」
トクシンが見つけたのは複数の注射痕だった。
「おそらくは、媚薬の類あるいは精神干渉系の薬物でしょうか? いずれにせよあなたはひどい混乱状態にある。そしてチセの注射を見て恐怖を抱いた。違いますか」
「私は、また変な薬でおかしくなって、それをまた打たれると思って」
「そうでしたか、ですが私たちは医者です。あなたの御主人よりも薬についてより専門的な知識があります」
「ええ?」
「そして注射での投薬は嫌でしょうから、こうして香にしました。さあ私の手を取って。大丈夫です。私はあなたを傷つけることはありません」
先ほどまで暴れまわっていた獣人が今では借りてきた猫の様に、素直にトクシンの手を取っていた。
「さあ、横になって、大丈夫、ゆっくり呼吸してください。それだけであなたに適した薬が体に入っていきます」
トクシンの声はひどく冷静だが、声色には温もりがこもっていた。
「不思議なにおい」
「ああ、これはこの山でとれる花のエキスを綺麗な紙にしみ込ませたものを燃やしています。自然由来の香りですので、気分がよくなると思いますが、いかがですか」
「・・・変なの、さっきまで怖いばっかりだったのに・・・なんだか眠く・・・」
「はい、ここは私の病院、そしてあなたは私たちの患者です。ですから心行くまで休んでください」
そのまま流れるように自然な手順で獣人を布団にいれると、あっという間に彼女は眠りについてしまった。トクシンは彼女の就寝を確認すると、香炉を枕から少し離した位置に置き、その場を離れた。
「先生私は」
「チセ、あなたがやろうとしたことは医術書で見ると、正しいことです。ですが医術は人を助けるために使う物です。我々医師が真に求められるものは、技術よりも相手を思い行動するための心です。そして相手のことを思い必死に考えたその先でようやく身に着けた医術が役に立つのです」
「はい」
「何はともあれ、今日のことはあなたにとってよい教訓となったでしょう。今日私が言ったことを忘れることのないように、そしてそれでもって柔軟に考え、事を進めなさい」
「ですが、先生。私は先生の様にできるでしょうか」
「大丈夫です。チセあなたはとっても優秀な子です。だからいつか再び私が言ったことを理解できる時が来たら、間違いなくあなたは最善の選択をすることができますよ」
「……はい」
あの時は本当にそうだろうかと不安だった。でも今はあの時の父の言葉の意味がはっきりと分かる。チセは息をゆっくりと吐くと、ヴァルフとリースに向けて語りだした。




