医師として必要な物 前編
激しく言い争いをする二人の間に、じんわりと煙が漂う。そしてこの狭い荷台の中でそれを吸わずにいるのは不可能だった。
「これは・・・いったい」
「力が入らねえ」
ヴァルフとリースは互いに手に物を持てなくなり、その場に落とした。
リースには経験がないものの、ヴァルフはその煙がもつ独特な香りに覚えがあった。
「これは睡眠作用のあるガス、いったい誰が」
ヴァルフは敵襲を警戒し、自身の武器である槍を手に取ろうとするが、その煙の発生源がチセの手元であることを目撃したとたん驚愕のあまり、武器を落とした。
「チセ、何処でそれを」
「地下街で購入しました。本当は麻酔代わりに使うはずだったのですが、まさかこんなことになるとは思ってもみませんでした」
チセは火が自身に燃え移る前に薬草を瓶に入れふたをした。それによって真空状態となった瓶の中で火は静かに消えていった。
「お二人の主張は分かります。ですが私の話も聞いてください」
そっとリースの肩に手を置くと、彼女もまたあきらめたように、地面に落ちたナイフを拾い鞘にしまった。
「私はこの作戦に賛成です。確かに問題点は多くありますが、これが現状最善の手だと思います」
チセはおちついた所作で床に腰かけると、瞳をしっかりと開き語りだす、と同時にあることを思い出していた。
それはまだチセがツレヒト達と出会う前、まだトクシンと二人で山小屋にいたときのこと、トクシンはチセの医術を認め、とある患者を彼女に任せた。その際に彼は『これはチセにとって最初の試練になるかもしれませんね』とだけ言っていた。
当時のチセはその意味がよくわからず、ただひたすらに目の前にいるボロボロになった女性の獣人に治療を施していた。依頼内容としてはトクシンが人間の貴族の体調を診ている間に、チセは彼が連れてきた獣人の治療を行うという物だった。連れてきた男が言うに、自分は何もしていないが、突然獣人が暴れだし、それをなんとか護衛の兵士が押さえつけたとのことらしい。そんなものをなぜ助けるのかと思ったが、どうやら高い買い物だったらしくまだその元を取れていないからとのことだった。まったくあさましい理由だと思ったが、そんなことはチセにはどうでもよかった。彼女を治療することでトクシンへのよいアピールになると、そう考えていた。
だからチセは最善を尽くした。切り傷を縫合し、打撲跡を消し、一ミリのずれもなく、包帯を巻ききった。そうして全身の治療を終えたとき、麻酔が切れた患者が目を覚ました。
「おはようございます。手術は無事終わりましたよ。あとはしばらく安静にして」
「あああああああ」
起き上がると同時にその獣人は大声を上げて暴れだした。突然のことにチセは困惑しながらも医術書通りに暴れる獣人を落ち着かせるために、鎮静剤が入った注射を用意した。
「落ち着いてください。突然のことに動揺するとは思いますが、暴れては傷が開いて」
「うるさい!!」
彼女は鋭利な爪をチセに振りかざした。幸い距離があったため、チセはそれを躱すことができた。しかし一刻も早く鎮静剤を打たなければ、彼女だけでなく、この場所にいる他の人にも被害が出てしまう。とは言えこんな興奮状態の相手にどう近づけばいいのか、チセは分からず、ただ立ち尽くしていた。
「そのおかしな薬でまた私を、私を壊そうって言うんだろ」
「いえ、違います。これは痛みを取る薬で」
「黙れ、お前ら人間の言葉を誰が信じるか」
獣人の女性はひどく取り乱した状態にあった。こういう時の対処法はたしか、複数人で抑え込んで無理やりにでも抑制剤を投与する、だったような気がする。だがここではそんなことができるはずもない。いや確か男が連れていた護衛がいたはず彼に協力を求めれば、などと思考している隙をついて、獣人はチセに襲い掛かってきた。
考え事をしていたせいで反応が遅れ、もはや回避は不可能な距離まで詰められて、チセは自らの人生の終わりを覚悟した。その時だった。




