第九話 闇に囚われた彼
「いかん、彼を取り押さえるんだ!」
その声が耳に届いた瞬間、背中を冷たいものが走った。
振り返る間もなく、黒い戦闘服の男たちがわたしの横をすり抜けていく。濡れた髪が頬に張りついたまま、わたしはただ立ち尽くした。足が動かない。声も出ない。
次の瞬間――
「ぐあっ!」
「うわっ!」
男たちの体が、見えない何かに弾かれた。
一人、また一人と地面に叩きつけられていく。轟くような風が吹き荒れ、砂埃が目に入って、わたしは反射的に両手で顔を覆った。服が煽られ、足元がよろめく。耳の奥で、鼓動が暴れていた。
何が起きているのか、わからなかった。
風が収まってから、恐る恐る顔を上げる。
弓鶴くんは、一歩も動いていなかった。
ただ、そこに立っている。けれど彼の周囲だけが、蜃気楼みたいに揺らいで見えた。空気の密度が違うのか、輪郭がぼやけて、現実と夢の境目が溶けていくようだった。
「無理です、藤堂さん。近づけません」
地面に膝をついた部下の声が震えていた。
「風ですよ。突然、壁みたいにぶつかってきた。自分には何も視認できませんでした」
藤堂さんと呼ばれた男だけは、かろうじて転倒を免れていた。
倒れた部下へ手を差し伸べながら、弓鶴くんのほうへ視線を向ける。風に砂が舞い、彼の頬をかすめるのに、目だけはぶれない。
「……どういうことだ」
低い声だった。
冷静さの奥に、深い困惑が滲んでいる。
沈黙が落ちた。誰も動かない。動けない。わたしの喉の奥は、ひりついたまま戻らなかった。
やがて藤堂さんが、静かに口を開いた。
「……そうか。もしかすると、我々は弓鶴くんが作り出した、巨大な場裏の中にいるのかもしれん」
場裏――その言葉に、空気が凍る。
さっき鳴海沢が吐き捨てた単語が、今度は別の口から落ちた。意味はわからないのに、肌の表面だけが先に冷える。
「な、なんですって!?」
「いくらなんでも規格外すぎる。だいたい、いつの間に展開されたっていうんです?」
「どんなに優秀な術者でも不可能だ。こんなのありえない――」
男たちの声が重なり合う。
わたしは耳だけでそれを追った。言葉の意味は掴めない。けれど、怖さだけが増していく。
藤堂さんだけは、まるで当然のことを口にするみたいに言い切った。
「その不可能が、今、俺たちの目の前で起きているんだ」
埃を払いながら、彼は続ける。
「柚羽家が得意とする色は『白』だ。白は大気を操作する流儀。おそらく彼は、空気を圧縮し、一気に解放することで爆発的な力を生み出している。単純だが、非常に厄介な技だ」
白。大気。
言葉だけが先に来て、頭の中で渦を巻く。
わたしの目には、弓鶴くんの周りの揺らぎしか見えない。それなのに、あの揺らぎが壁だと言われると、息が浅くなった。
圧縮して、解放する。言葉だけなら理科の授業みたいなのに、目の前では人が地面に叩きつけられている。そのずれが、かえって怖い。
「問題は場裏の領域範囲だ。……半径は百メートル、いや二百メートルはあるかもしれん。まるで境界が見えない。内側にいる我々は、ここにいる限り空気ごと押さえられるぞ」
何もできない。
見ているだけしかできない。
その事実が、みぞおちを固く締めつけた。弓鶴くんの背中の黒はまだうねり、足元の影だけが濡れた砂利の上を遅れて伸びている。
藤堂さんは部下たちを見回し、短く指示を出した。
「仕方がない。緊急鎮静用の投薬器を使おう。今の彼は理性を完全に失っている」
背後に控えていた男が、一歩前に出る。
その手には、見慣れない形の投薬器があった。細長い筒が夕闇の光を拾い、鈍く冷たい。
心臓が跳ねた。
「ちょっと待ってください! 彼を撃つつもりなんですか!?」
声が出ていた。
考えるより先だった。濡れた髪が首筋に張りついて冷たいのに、頬だけが熱い。
藤堂さんがこちらを向く。
静かな目だった。けれどその奥に、引き返せない覚悟が見えた。
「そうだ」
「そんな――」
「今の彼は、力そのものに心を呑まれているような状態だ。これ以外に暴走を止める手立てはない」
言葉が頭の中で反復する。
弓鶴くんの背中に蠢く黒が、そのまま証拠みたいに見えてしまうのが怖かった。
「力に呑まれるって……どうして彼がそんなことに」
声が震えた。
自分でもわかるくらい、弱い音だった。
藤堂さんは深く息をついてから、答えを濁すように言った。
「詳しいことは言えないが……彼の持っている力は、『強すぎる』がゆえに危険なんだ。準備はしてきた。だが、まさかこれほどとは思わなかった」
「弓鶴くんが、強すぎる? 力ってなんなんですか……?」
呟いた声が、自分の耳に遠く聞こえた。
昨日、夕陽の前で立っていた少年が、どうして。あの綺麗で冷たい横顔と、いま黒に呑まれかけている背中が、どうして同じ人なのか、うまく繋がらない。
藤堂さんは少しだけ声を和らげた。
「詳しくは言えない。だが、心配するな。狙うのは腕と脚だ。使用する薬も、彼の体格に合わせて調整してある」
その言葉がどれほど落ち着いて響いても、わたしの中の不安は消えなかった。
弓鶴くんは、わたしを助けようとして前に出た。
冷たい言葉を投げてきた人で、だけど――守ろうとした人だ。
静かな射出音が響いた。
投薬器から細い矢のようなものが放たれ、まっすぐ弓鶴くんへ向かっていく。
けれどそれは、彼の手前で見えない壁に阻まれた。
くるくると回転しながら、力なく地面に落ちる。湿った砂利に刺さって、短く跳ねた。
全員が息を呑んだ。
「届かない、だと……」
誰かの呟きが、遠くから聞こえてくるみたいだった。
現実が薄い膜の向こう側にある。足元がふわふわして、わたしは膝を曲げそうになるのを堪えた。
藤堂さんはすぐに次の指示を出し始めた。
発煙弾。催涙ガス。マスクの確認。
淡々とした手順が、逆に残酷に見える。言葉が重なるたび、弓鶴くんの背中が少しずつ遠ざかっていくようだった。
「できるだけ後ろに下がれ」
わたしにはそれだけ言って、彼は部下たちのほうへ向き直った。
「彼を止められないんですか?」
詰め寄るように言った。
信じたくなかった。撃っても届かない。近づけない。押さえられない。そんな言葉ばかりが増えていく。
藤堂さんは振り返りもせず、首を横に振った。
「現状では、確保は困難と言わざるを得ない。だが、彼をこのまま放置すれば――」
「どうなるっていうんです?」
声が震えていた。
藤堂さんの背中が、ほんの短く強張ったように見えた。
「心を持っていかれた術者は、際限なく力の源を取り込もうとする。行き着く先は――破滅。すなわち、死だ」
冷たい言葉だった。
あまりにも冷たくて、胸に刺さったまま抜けない。
「そんな……そんなことって……」
弓鶴くんの背中で黒がうねり、夕闇をさらに濃くしている。
あの冷たい瞳の奥にあった寂しさ。夕陽を見つめていた横顔。静かに笑った、ほんの短い時間。
今、その影が全部を飲み込もうとしている。
わたしの目には、弓鶴くんがどんどん遠ざかっていくように見えた。手を伸ばしても届かない。声をかけても届かない。深い闇の底へ沈んでいく。
足元の砂利を踏んでいる感覚だけが、やけにはっきりしていた。
握りしめた左手の動かない指が、何の役にも立たないまま掌の中で強張っている。声を出しても届かない。手を伸ばしても、あの黒の向こうへ届く気がしなかった。
どうしたら――どうしたら、彼を救えるのだろう。
そのとき。
心の奥の、もっと深いところで、声が響いた。
わたしの声ではない。知っている誰かの声でもない。
聞いたことのない、けれどどこか懐かしい響きだった。
《《君は……本当にそれでいいのかい?》》




