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第八話 全て呑み込む深淵の黒

 弓鶴くんの叫びが、まだ空気に残っていた。


 波の音が、いきなり遠くなる。耳の奥だけが熱くて、鼓動がそこへぶつかってくる。濡れた髪の先から落ちた水滴が首筋を伝い、その冷たさだけがやけにはっきりしていた。


 弓鶴くんの背中の影が、濃くなる。


 ただ夕闇が深まったのではない。


 白い柵の輪郭が、彼の背後から少しずつ沈んでいく。濡れた砂利に残っていた夕陽の光も、さっきまでそこにあった青白い霧の名残も、黒い深みに吸われるように薄れていった。


「な、なに……これ……?」


 声がかすれた。喉が乾いて、舌が張りつく。


 煙に見えるのに、そこには軽さがない。揺れるたび、空気の底が沈み、頬へ触れていた湿った風まで冷たさを増していく。わたしは反射的に半歩さがった。


 その瞬間、弓鶴くんの喉から、押し殺したような音が漏れた。


「ぐぅぅ……」


 獣の唸りに似ていて、胸の奥がひやりとした。


「弓鶴くん……」


 声に出したはずなのに、自分の耳に届くまでが遅い。周囲の音が黒いものの中へ沈んで、わたしの呼びかけだけが、濡れた砂利の上にぽつんと落ちたみたいだった。


 鳴海沢が、はじめて本気で動揺した顔をした。


 薄い笑みが消え、眼鏡の奥の目が大きく見開かれる。


「君はいったい、何をした……?」


 問いの形なのに、答えを欲しがっていない。


 ただ、目の前で起きていることを信じたくないだけの声だった。


 わたしの指先が勝手に握り込まれる。濡れた髪が頬に張りついて、塩が唇の端に残っていた。


「弓鶴くん、大丈夫? いったい、どうしちゃったの?」


 呼びかけた途端、弓鶴くんの肩がわずかに跳ねた。


 けれど振り向かない。振り向けないまま、首の筋だけが固く浮いている。


 鳴海沢が、息を整えるふりをして声を作り直した。


「何をするつもりなのかはわからないが、忘れていないかい? 君はまだ僕が展開した場裏の檻の中にいるんだよ?」


 言いながら腕を振る。


 その瞬間、空気が膜を張った。


 濡れたガラスのような半透明の膜が、弓鶴くんを包み込む。水面の裏側へ閉じ込めるみたいに、周囲の音が鈍く沈んだ。波も、風も、遠い。残るのは自分の呼吸だけで、それさえ薄くなる。


「えっ……!?」


 膜は脈打つように膨らみ、白く濁った光を帯びた。


 けれど次の瞬間、その白さがふっと抜ける。


 抜けたのは光ではなかった。


 膜そのものが、縁からほどけ、弓鶴くんの背後の黒へ吸い込まれるように消えた。


「僕の場裏が、消されただと? 馬鹿な、場裏と場裏は干渉し合う。そんなことは……」


 鳴海沢の声が揺れた。


 わたしの視界の端で、さっきまで近くに漂っていた青白い霧の球が、ひとつ、またひとつと消えていく。弾ける音もない。息を止めたみたいに、ただ無くなる。


 白い柵の色が、また一段くすんだ。


 弓鶴くんの足元の影は、夕闇の向きとは関係なく広がっている。彼の背中からあふれるものが、地面に落ちていた影を飲み込み、濡れた砂利の光を曇らせていく。


「まさか……君は場裏ではなく、僕が集めた精霊子そのものを奪ったというのか?」


 精霊子。


 言葉の響きだけが、胸のどこかに棘みたいに刺さった。


 意味はわからない。けれど、嫌な予感だけが濃くなる。あの青白い霧が消えたことも、膜が吸われたことも、弓鶴くんの背中から滲む黒が少しずつ膨らんでいることも、全部が同じひとつの場所へ向かっている気がした。


 弓鶴くんが、ゆっくり顔を上げた。


 瞳の色が変わったとか、そういう単純な話ではなかった。


 人の目なのに、遠い。目の前にいるはずの鳴海沢も、海も、わたしも映していない。光だけが奥へ沈み、底のない穴みたいに冷えている。


 そして、鳴海沢へ向かって足を動かした。


「君は無資格者だったはず。だが、それではこの現象に説明がつかない」


 鳴海沢の喉が一度だけ鳴った。


 笑みを作ろうとして失敗した唇が、乾いて白くなる。指先だけが、わずかに震えていた。


「……いや、そもそもこんな術者、存在するわけがない……」


 息が浅くなる。潮の匂いが苦い。


 わたしは足を動かしたいのに、砂利が足裏へ刺さるように重かった。


 鳴海沢が、弓鶴くんの背中へまとわりつく深い闇を見て、声を落とした。


「背中から滲み出すそれは……そうか、君が持つ色とは『黒』だったのか……。それがどういう意味を持つかわかっているのか?」


 弓鶴くんは答えない。


 答えられないまま、唇だけが歪む。


 次に出た声は、短くて、乱暴で、子どもみたいだった。


「やかましい……きさまは、ぶっとべ」


 言い終えた瞬間、空気が爆ぜた。


 耳が痛い。砂利が跳ね、風が頬を殴る。わたしは反射的にしゃがみ込み、腕で頭を庇った。


 目を開けたとき、鳴海沢は十数メートル先へ吹き飛ばされていた。人形みたいに転がり、地面に叩きつけられて動かない。


「今のって、いったい……」


 声が出たのかもわからない。胸の中で言葉が崩れる。


「でも、これで終わった……?」


 息を吸った。


 吸えた。


 けれど安堵は続かなかった。


 弓鶴くんの喉が、また鳴る。痛みを噛み潰すみたいに。


「……こ、ころす……」


 彼の背にまとわりつく黒が、うねった。


 腕のようにも、煙のようにも見える。けれど、そのどれでもない。輪郭を持とうとしては崩れ、崩れてはまた伸びる。そのたび、弓鶴くんの肩や髪の端が、黒い縁取りに呑まれていった。


 弓鶴くんはふらつきながら、倒れた鳴海沢へ歩き出す。


 足取りは危ういのに、意志だけが刃みたいにまっすぐだった。止められない。その背中が、そう言っているようだった。


「ころす……ころしてやる。ぜんぶおまえらのせいだ……。おまえらなんかがいるから……」


 うわ言みたいに繰り返しながら、その声だけが重くなる。


 白い柵の向こうに残っていた夕陽が、さらに薄れる。背中の黒は膨らみ、弓鶴くんの肩の線を内側から押し歪めていた。


 彼が一歩進むたび、濡れた砂利の上で影だけが遅れて伸びる。


 ――わたし、どうしたらいいの?


 逃げたいのに、逃げたらだめな気がした。


 足が震える。湿った髪が首筋にまとわりついて冷たい。


 息を吸おうとすると、濡れた髪から落ちた水滴が首筋を伝った。その冷たさだけが現実で、弓鶴くんの背中は、もうわたしの知っている男の子のものではなくなりかけていた。


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