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第七話 冷徹なる青

 そのとき、空気が裂けた。


 海が怒ったみたいに水しぶきが巻き上がり、視界が白く潰れる。冷たい粒が頬へ叩きつけられ、髪がいっせいに濡れて首筋へ落ちた。湿りが肌へ貼りつき、息が重くなる。


「きゃっ!?」


 悲鳴が勝手に跳ねた。


 夕陽の残り火を受けた水滴が、細い光のカーテンになって舞う。目を閉じても、濡れた髪が首筋へ張りついていることだけはわかった。さっきまで聞こえていた波の音が急に遠くなり、水滴が砂利へ落ちる小さな音だけが、やけに近く残っていた。


「なっ、なんなの……?」


 恐る恐る目を開けた瞬間、現実感が剥がれた。


 わたしの腕を掴んでいた男が、苦悶の顔のまま膝から崩れ落ちている。戦闘服の袖の下、手首のあたりに小さな穴が開いていた。そこから血がしずくになって落ちる。


 ぽた、ぽた。


 砂利の上で赤が滲み、ゆっくり広がっていった。


 目を逸らせない。喉が固くなる。声が出ない。


「ああ……」


 震えが止まらなかった。背中に冷たい汗が流れ、膝が抜けそうなのに動けない。


 そして、そこにいた。


 青白い霧に包まれた、バレーボール大の球が二つ。


 ふわりと浮いているのに、影みたいに確かな存在感があった。わたしのすぐ近く、袖口に触れそうな距離で、霧がひそひそ揺れている。


 さっきの水は、遠くから飛んできたものじゃない。


 球の表面が針穴みたいに開き、そこから糸のように細い水の筋が跳ねた。伸びたのはほんのわずか。指先が届くか届かないかの距離で、端から霧へほどけて崩れる。


 だから球体は、逃げ場のないほど近くへ寄せられていた。


 近いから刺さる。


 近いから切れる。


「どうなるかって、こういうことさ。少しでも動いたら、君は死ぬよ……」


 低く、無感情な声が耳元に落ちた。


 息が止まる。


 鳴海沢は冷酷な表情でこちらを見ていた。さっきまでの穏やかさは跡形もない。薄い笑みの奥に、刃がある。


「それと、だめじゃないか君たち。これは僕と弓鶴くんとの交渉事なんだ。邪魔するなんて無粋にもほどがあるよ」


 黒い戦闘服の男たちが動きを止め、負傷した仲間のもとへ駆け寄る。慌ただしい手当ての動きが、かえってこの場の静けさを際立たせた。


 血の匂いが潮と混ざり、胃の底が冷える。


「すでに君たちは僕が展開した、『場裏』の檻の中だ。もっとも、血族に連なる者ではない、そこの彼女には認識はできないだろうけどね」


 ――どゆこと? わたし、見えるんだけど……。


 青白い霧の球は、消えない。瞬きをしても、視線を逸らしても、そこにいる。見えてしまうこと自体が怖くて、喉の奥がひりついた。


 鳴海沢は得意げに続けた。


「僕を表す色は青。深淵の青だ。大まかな範囲で言ったら、水を司る流儀さ。僕が願うままに、水はそのありようを変化させる。たとえばこんな風にね」


 彼が手を軽く振る。


 球体のひとつが、音もなく横へ滑った。遠くへは行かない。ベンチの金属フレームへ、触れそうな距離まで寄る。霧が内側へ集まり、青白い光が一瞬だけ濃くなった。


「……っ!」


 針穴が開く。


 糸のような筋が跳ねる。


 金属が震えた。切断面が夕闇の光を返し、ベンチのフレームが音を立てて真っ二つに割れていく。飛び散った小さな破片が頬をかすめ、わたしは反射的に身を引いた。


 心臓の音が、耳の中で暴れる。


 こんな距離で。


 こんな一瞬で。


「どうかな? これが僕の得意とする疾槍(しっそう)だ。場裏の中に集めた水を極限まで圧縮して打ち出す、ようするに簡易的なウォーター・ジェット・カッターってところかな。水なんかで? って思うかもしれないけれど、圧力と速度を一点に絞れば、鉄だろうとコンクリートだろうと、簡単に裂けるんだよ」


 言葉が耳を通り抜け、背骨に触れた。


 疾槍。


 音の形が、冷たい。


 鳴海沢は、ただ仕組みを説明しているわけではなかった。怖がり方まで、ひとつずつ教えているみたいだった。


 そのとき、ずっと黙っていた弓鶴くんが口を開いた。


 声は静かなまま、空気だけが切れる。


「随分と仰々しい真似を。これは深淵の殺しの流儀に反するぞ?」


 鳴海沢が薄く笑う。


「いやいや。そこの彼女には効果的だったろう?」


 視線がわたしへ向いた瞬間、胃がさらに冷えた。


 道具として見られている、と身体が先に理解してしまう。


「殺すだけなら、もっと簡単だからね。ふふふ……」


 その言葉が、頭の中で反復する。


 簡単。


 簡単。


 わたしの呼吸だけが勝手に浅くなる。


「すれ違いざまに、対象の体内に極小の場裏を滑り込ませてやるだけで事は済む。重要な器官や血管をちょっと傷つけてやるだけで、人なんてすぐに死ぬんだ。気づかれることもなく、証拠となる凶器も外傷も残さずにね。……さてと、君はどんな死に方がいいかな?」


 笑みのまま言う。


 声が優しいほど、内容が冷たい。わたしの手が震えそうになり、膝の上で必死に握り込む。


 動けない。


 逃げたいのに、球体が近すぎる。


 近いから死ぬ。


 ――だめだ。このままじゃ、わたし。


 うつむいていた弓鶴くんが顔を上げ、一歩前に出た。


 背中が凛と立つ。小柄なのに、そこだけ空気が変わる。


「今すぐ卑怯な真似はやめて、こいつを解放しろ……」


 鳴海沢は冷笑を浮かべたまま言う。


「彼女には交渉材料になってもらっただけさ。君がおとなしく僕に従ってくれるのなら、自由にしてあげるよ。けど、従わないのなら、確実に死ぬだろうけどね」


 弓鶴くんは一歩ずつ前へ出る。


 足音が小さいのに、確かだった。わたしの心臓が早鐘になる。


「やめろと言っている……」


 鳴海沢がため息を落とす。


 落胆のふりをした声が、いちばん底意地悪く聞こえた。


「返す言葉がそれとはね……。君に戦う力がないことはわかっている」


 夕闇の縁で、眼鏡のレンズが薄く光った。彼はわざとらしく顎に指を当て、少し考え込む仕草を見せる。


「そうだ。どうしてもやめてほしいなら、正しいやり方というものがあるんじゃないかな? たとえば、僕の前で跪いて懇願するとか? どう?」


 愉悦が口元に広がる。


 濡れた襟元が冷えて、首筋の皮膚が細かく粟立った。わたしは呼吸を整えようとして、うまくできない。


 弓鶴くんの肩がわずかに震えた。


 怒りだ。


 怒りの熱が、空気を焦がす。


「……関係ない奴を、巻き込むんじゃあないっ!!」


 叫びが雷鳴みたいに響き、世界が一瞬だけ揺れた。


 足元の砂利が細かく鳴り、近くに浮かぶ青白い球の霧が、内側から押し返されるように震えた。


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