第六話 弓鶴くんの宿命の鎖
「まさか鳴海沢とはな……。深淵の御三家でも筆頭格の家柄が、わざわざ俺みたいな、『郭外』に飛ばされた小物に何の用だ?」
弓鶴くんの声は低く、乾いていた。夕闇の湿りをはじくほど鋭いのに、その奥に、ごく小さな震えが混じっている。
わたしは息を飲み込んだ。知らない言葉ばかりなのに、知らないまま聞き流してはいけないものだと、身体だけが先にわかっていた。
鳴海沢という青年は落ち着いたまま、夕焼けの端を眺めるように目を細めた。笑みは薄い。温度がない。
「わざわざ僕がここへ出向いたのはね。上帳からの提案を、君に伝えるためだよ」
言葉だけが軽かった。
その軽さが、逆に怖い。波の音は同じ形で寄せてくるのに、空気の密度だけが変わっていく。海風の湿りが肌へまとわりつき、逃げ道をふさいでいくようだった。
「提案だと? 笑わせる……」
弓鶴くんの唇が、ほんの短く結ばれた。
噛み殺した感情が、そこだけ色を濃くする。
鳴海沢は間を置いてから、まるで当然の手順を踏むように言葉を続けた。
「単刀直入に言うよ。君には『在るべき場所』に戻ってきてもらいたい。つまり、柚羽家の当主として、ね」
その瞬間、胃の底がひやりとした。
家。当主。
言葉の意味が追いつかないのに、弓鶴くんの肩だけがわずかに硬くなる。夕陽の残りがその輪郭へ細く触れて、そこだけが石のように見えた。
「断る。さっき言ったはずだ。俺は無資格者だと。『始まりの回廊』で『根源の声』を聞けなかった身だ。それに当主なら、姉上が……」
最後のところで、声が揺れた。
波の白い線が乱れる。そんなはずはないのに、わたしの目が勝手にその揺れを探す。
鳴海沢は淡々と、けれど確信だけを濃くして告げた。
「そのお姉さんが、一年ほど前から行方不明なんだ。柚羽家は代々大事なお役目を担っている。彼女の不在は大問題なのさ。あちこち探したけれど、結局行方はつかめなかったそうだ。だから、君を呼び戻して家督を継がせ、家系を存続させようというわけさ」
行方不明。
その言葉が喉に引っかかった。
家督。家系。存続。
どの言葉も、わたしの生活には遠すぎるものだった。けれど鳴海沢さんの声に乗ると、人の体温を奪う手順書みたいに聞こえる。
弓鶴くんは目を伏せない。伏せないまま、何かを見ないふりをしているように見えた。
「……姉上が失踪した件は、叔父上から聞き及んでいる。だが、俺にはもう関係ない話だ」
言い切ったはずなのに、声が少しだけ遅れた。
遅れたぶんだけ、痛みが残る。
「実のお姉さんなのに、ずいぶんと冷たいんだね……」
鳴海沢の声音に、ほんのわずかだけ湿りが混じった。
慰めではない。責めるほど強くもない。ただ、相手の傷の深さを測るために、指先で押してみるような湿りだった。
「それに、別れなら、九年前にすでに済ませた……」
短い言葉なのに、落ちた場所が深い。
わたしは足の裏へ力を入れた。砂利の粒が痛いほどわかる。ここに立っている、という事実を、そうやって確かめるしかなかった。
鳴海沢は首を傾ける。笑みの形を変えないまま、静かに続けた。
「なるほど。だがね、彼女がいなくなった今、柚羽の血を継ぐ君には新たな価値が生まれたんだよ。『根源の欠片』と対話できるのは、柚羽の直系だけだ。君が血を遺すことで、血族に連なる人々を救うことにも繋がるんだ」
血を遺す。
その言葉が、やけに生々しく聞こえた。
背筋が粟立つ。救う、という単語だけが薄く浮いている。人の未来を、血という言葉だけで畳まれた気がした。
弓鶴くんは唇をぎゅっと噛んだ。
次の瞬間、笑った。
「くっくっくっ……」
笑い声が冷える。
夕闇の中へ、氷片を散らすような音だった。
「救われる、だと? ふざけるな」
怒りがじわりと滲む。
叫ばないのに、刺さる。
「あんな『呪い』を力と崇め、何ら疑問も抱かず信じ続けることのどこが幸せだ? 貴様らは、その血みどろの力で築いた死体の山を想像したことがあるのか?」
意味は追えない。
けれど言葉の重さだけが胸へ落ちる。弓鶴くんの横顔が、さっきまでよりも少しだけ大人びて見えて、わたしは目を逸らせなかった。
「何が始まりの回廊だ? 何が力に基づく選別だ? 力無き者を家畜のように利用し搾取するくだらん仕組みに過ぎん。俺は、そんな腐った連中の道具に成り下がるつもりはない。柚羽の血など、いっそ潰えてしまえばいい」
最後の一文が、風の中で刃になった。
わたしの喉が勝手に縮む。声が出ない。海の匂いが、急に鉄の味を含んだように感じられた。
鳴海沢は少しだけ黙った。
眼鏡のレンズが夕陽の残り火を拾い、目の奥を隠す。深い息が一度だけ落ちてから、彼は静かに言い放った。
「君がどう思おうと、運命に逆らうことはできない。さあ、一緒に来るんだ」
運命。
言葉の形をした鎖みたいに聞こえた。
「断る」
弓鶴くんは怯まない。
声の芯がまっすぐで、こちらの身体まで固くなる。
鳴海沢の表情が、わずかに険しくなった。笑みはまだ残っている。けれど目だけが冷えていた。
「やれやれ、なんて聞き分けがないんだ。僕だって強引なやり方はしたくないんだけどね。これでは仕方がないかな」
胸の奥がざわつく。
さっきまでの夕焼けが急に遠くなり、景色が薄い膜越しになった。海も、柵も、足もとの砂利も、全部が自分から少し離れていく。
「やれるものなら、やってみるがいい」
弓鶴くんの声は静かだった。
静かなまま、空気を裂いた。
「そうかい……では、そうさせてもらおうか」
鳴海沢の言葉が落ちた瞬間、世界がわずかに遅れた。
次に来るものを、身体だけが先に知ってしまう。首の後ろが冷え、息が浅くなる。
弓鶴くんがわたしを見た。
目が鋭い。けれど、その奥に焦りが滲んでいる。
「お前は一切関係ない。今すぐここから逃げろ! そして、ここでの話は全部忘れるんだ!」
呼吸が止まった。
忘れる。
そんなの、できるわけがないのに。
「え……?」
「でなければ、お前は死ぬぞ」
死ぬ。
言葉が皮膚を突き抜けて、内側へ落ちる。足首がさらに固くなった。
「わ、わたしが……死ぬ……? うええっ!?」
声がひっくり返った。
情けないほど大きくて、風に攫われそうなのに、耳の奥では増幅して響く。
そのとき、弓鶴くんがパチンと指を鳴らした。
音が乾いていて、妙に近い。
暗がりから、数人の男たちが音もなく現れた。黒い服に厚い防護ジャケット。顔は黒い覆面で隠れていて、目だけが暗く光る。
気配が薄いのに、輪郭だけがやけに確かだった。さっきまでそこには誰もいなかったはずなのに、ずっと闇の中で呼吸を殺していたのだと、遅れてわかる。
「こいつを連れて、すぐに退避しろ! 急げ!」
命令の声に、男たちが一斉に動いた。
一人がわたしの腕を掴む。指が硬い。熱も冷たさもなくて、ただ力だけがある。
「えっ? でも……!」
言い終える前に引かれた。
靴底が砂利を蹴り、音が跳ねる。夕焼けの色が揺れた。
そのとき――
視界の端を、何かが凄まじい速さで駆け抜けた。
直後、風を切る音。
理解する前に、背中の皮膚がひやりと粟立つ。
砂利を蹴った足が、うまく地面を捉えられない。掴まれた腕の痛みだけがやけにはっきりして、振り返ろうとした視界の端で、夕焼けの色が細く裂けた。




