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第五話 黄昏の来訪者

 彼の名は、弓鶴。


 その響きが、まだ喉の奥に残っていた。理由はわからない。ただ、どこかで一度聞いたことがあるような気がして、わたしはしばらく言葉を見つけられなかった。


 何か言わなきゃ、と思う。


 せめて自分の名前くらい。


 唇を開きかけた、そのときだった。


 背後から声が落ちてきて、全身がびくりと強張る。潮の匂いがいきなり濃くなったように感じて、喉が乾いた。


「やあ、こんにちは」


 驚いて息をのんで振り返ると、細い縁の眼鏡をかけた背の高い青年が立っていた。


 長い黒髪が夕暮れの風にそよぎ、レンズが橙の光を薄く返している。その輪郭はやわらかいのに、立ち方だけが妙に揺らがない。背丈はわたしよりずっと高い。近くに立たれると、さっきまで見えていた海が一歩ぶん遠のいた。


「ここって、いい場所だね」


 声は落ち着いていて、舌に引っかかりのない滑らかさがあった。


 軽いのに、耳の奥に残る。


 青年はゆっくりこちらへ歩み寄ってきた。靴底が砂利を踏む音が小さい。重心がぶれない。笑みは穏やかなはずなのに、わたしの背中が勝手にこわばった。


「街の人に、ここから見る夕焼けがすごくきれいだって聞いたんだ。来てみて大正解だったな。ほんとうにすごい。君は地元の人?」


 質問の形をしているのに、視線が先に答えを拾いにくる。


 わたしは喉の奥で唾を飲み込んだ。


「いえ、わたしは旅の途中でこの場所を探していて、たまたま……」


 声が少しだけ震えた。


 夕風が頬を撫で、塩が唇の端に残る。その塩気まで見られているような気がして、足裏に力を入れた。


「へえ、そうなんだ。よろしくね」


 青年は、誘うように笑った。


 その笑みがあたたかいほど、境界の薄い場所へ踏み込まれる感じがする。わたしは砂利の感触に意識を戻した。靴底の下で、小さな石がかすかにずれる。


「この景色って、どこか懐かしさを誘うね。君もそう思わない?」


 懐かしい。


 そう言われた途端、喉の奥がひりついた。昨日の夢の霧が、一瞬だけ鼻先をかすめたみたいだった。


「はい……そんな気がします」


 答えながら、わたしは弓鶴くんの横顔を盗み見た。


 彼は何も言わない。けれど瞳が、青年から一度も離れていない。海を見ているときとはまるで違う、研ぎ澄まされた静けさがそこにあった。


「思い出って不思議だよね。大切な思い出も、忘れたいことも、ちょっとしたきっかけで蘇ってくる。いい意味でも悪い意味でもね。過去の記憶が今の自分を作ってる。……そんな感じかな」


 言葉は穏やかだった。


 でもどこか、わたしの内側へ指を差し込んでくる。閉じていた引き出しの取っ手だけを、そっと撫でるみたいに。


「そちらの彼は、どうかな?」


 青年の視線が、弓鶴くんへ滑った。


 風が白い柵を鳴らし、金属がかすかに震える。


 隣で、空気が変わった。


 弓鶴くんの睫毛の影が一段濃くなり、視線が刃みたいに研がれる。


「貴様……いったい何者だ?」


 低い声だった。


 昨日の「くだらない」とは違う。人を退けるための冷たさではなく、切り落とすための冷たさ。


 青年は驚いた様子も見せず、淡々と笑った。


「僕かい? ただの観光客だよ」


 弓鶴くんは一歩も引かない。


 呼吸が変わった。浅くも深くもない、刃を研ぐときの静けさ。


「観光客にしては、動きが妙に洗練されている。足の運びや重心のかけ方、呼吸のリズム……外見に似つかわしくない時代がかった所作が染みついている。しかも、一分の隙もない」


 わたしは息を止めた。


 そこまで見ているのだと、遅れて気づく。わたしが見ていたのは、顔と声だけだった。綺麗だとか、怖いとか、そんな表面ばかりだった。


 弓鶴くんは、別の層を見ている。


 青年はわずかに目を細め、唇に笑みをたたえた。


「君は本当に鋭いね……。僕はただ、君と話がしたいだけなんだ。柚羽弓鶴(ゆずはゆづる)くん」


 その名が落ちた瞬間、わたしの背中が冷えた。


 どうして知っているの。


 わたしだって、さっき聞いたばかりなのに。


 弓鶴くんの表情が、ほんのわずかに揺れた。すぐに元へ戻る。戻ったはずなのに、瞳の奥にごく薄い恐れが混じったように見えて、わたしはぞくりとした。


「何故、俺の名前を知っている?」


 青年は肩をすくめる。


 笑みの形だけは変えない。


「君のことだ、もうわかっているはずじゃないのかな?」


 弓鶴くんが、わたしを指さした。


 指先が震えていないのが怖かった。


「話があるなら、まず人払いをしてもらおうか。この女は、俺とは何の関係もない」


 言葉が胸へ刺さった。


 関係もない。


 わかっているはずなのに、痛い。わたしは笑うことも怒ることもできず、ただ指先を握り込んだ。


 青年は微笑んだまま、やわらかい声で返す。


「それはだめだよ」


「貴様……」


 弓鶴くんの拳がわずかに締まる。


 風が強くなり、髪が頬に張りついて離れた。海の音が遠のき、かわりに血の音が耳の奥で鳴り始める。


 青年は一歩も動いていない。


 それなのに、いつのまにか距離だけが狭くなったように感じた。


 逃げるなら、右。駅へ戻るなら、石段。そう数えようとして、足首の奥が冷えていく。彼の目はわたしを見ているのに、荷物の置き場所でも確かめるように静かだった。


「彼女にはここにいてもらった方が、いろいろと都合がいいんだ。わかるだろう? この間合いなら、僕が『どうとでもできる』ってことくらい」


 胃の底が冷えた。


 視線を向けられた瞬間、足元の砂利が抜けるように感じる。言葉が、わたしを道具にする。名前ではなく、身体でもなく、そこに置けるものとして数えている。


「というわけで、君にはそこで話を聞いていてもらえないかな?」


 優しい声なのに、逃げ道がない。


 わたしは唇を噛み、声を絞り出した。震えるのが悔しかった。


「どういう意味ですか? わたしには、あなたの言ってることが全然わかりません。邪魔なら帰ります。列車の時間もあるし」


 言いながら、身体が動かない。


 膝の裏だけが冷たく張っている。デイバッグの紐を握る指に力を込めても、その力が足まで降りていかなかった。


 青年は肩をすくめた。


「選択するのは君だ。だけど、どうなっても知らないよ?」


 その言葉が落ちた瞬間、首の後ろだけがひやりと冷えた。


 わたしは息を吸う。潮の匂いが肺へ入って、苦い。


「どうなるっていうんです……はっきり言ってください」


「さあね。それはそこの彼が、よく理解しているんじゃないかな?」


 わたしは思わず弓鶴くんを見た。


 彼は怒りと、何か別のものの間で揺れているように見えた。怒りだけじゃない。もっと古い、深い、名前のない重さ。夕闇の中で、それだけが彼の瞳の底へ沈んでいる。


「さて、と……」


 青年はゆっくり弓鶴くんへ向き直った。


 夕闇が一段濃くなり、眼鏡の奥の目が見えにくくなる。


「……まずは自己紹介をしておこうか。僕は鳴海沢洸人(なるみざわひろと)。よろしくね、弓鶴くん」


 静かな湖へ小石を落としたように、空気が波立った。


 弓鶴くんの瞳が、さらに冷える。


「やはり貴様……『深淵』の者か……」


 その言葉が落ちた瞬間、わたしは息をのんだ。


 深淵。


 知らないはずの音なのに、耳だけではなく、体の内側のどこかが反応した。


 逃げなきゃ、と頭のどこかが告げる。


 そう思うのに、足がすくむ。夕風が頬を撫でるだけで、世界がひどく遠い。張り詰めた空気が肌に絡みつき、わたしはその場から一歩も動けなかった。


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