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第四話 彼の名前は弓鶴

 水平線へ沈みかけた夕陽が、海面に細い橙色の道を引いていた。波の白い線だけが変わらず寄せてはほどけ、時間だけが少しずつ遠くへ流れていくみたいだった。


 わたしはただ、それを見つめる。


 昨日みたいに、息を詰まらせたりしない。そうなったら、また訳がわからなくなる。せっかくここまで戻ってきたのに、自分の中のどこが反応しているのか、また見失ってしまう。


 頭の隅で、列車の時刻が鳴っていた。


 六時。ロッカーの鍵。帰りの切符。


 整理しようとするほど、別の言葉が先に割り込む。


 くだらない。


 唇の裏が苦くなる。わたしは膝の上で指を組み、動かない二本の指を隠すように握り込んだ。喉の奥が熱い。息だけが、変に細くなる。


 ここにいれば、夢の中の彼女に会える気がした。


 そんなの、言い訳だ。そう思っても、視線は夕陽から離れない。海の音だけが、わたしの中で立ち上がるざわめきを、少しずつ削っていった。


 そのとき――


「なんだ。お前、また来たのか?」


 背後から落ちた声に、身体の内側へ細い電流が走った。


 昨日と同じ高さ。同じ冷たさ。同じ、耳の奥に刺さる感じ。


 わたしはおそるおそる振り返る。


 夕陽の縁を背負った黒髪。まっすぐな視線。綺麗なのに、笑わない目。


「別にいいでしょ。もうすぐここを発つから、その前にもう一度この景色を見たかっただけ」


 冷めたふうに言ったつもりなのに、声の端が少し揺れた。


 わたしはデイバッグの紐を握り直し、左手をうまく隠した。隠したところで何が変わるわけでもないのに、見られたくないものだけが、急に増えた気がした。


「ふーん……」


 たったそれだけで、喉がきゅっと縮む。


 気にするな、と自分に言い聞かせるほど、気にしているのがばれる。そんな気がして、視線を海へ戻しかけた。


 彼はわたしから目を外し、夕陽のほうへ細くまなざしを向けた。風に押された髪が乱れても、直そうとしない。


「まあ……この時間帯は特別だからな。わからなくもないが」


 柔らかい、というほどではない。


 けれど昨日の刃よりは丸かった。わたしの呼吸が、そこでようやく戻った。


 気まずさと、ほっとした感じが混ざる。沈黙がふたりの間に落ち、波の音が遠くでくり返す。わたしは海を見たまま、口の中で言葉を転がした。


 言わないほうがいい。


 でも、言わなかったら、このまま帰ってしまう。


 結局、それを外へ出した。


「ひとつだけ……あなたに訊きたいことがあるんだけど、いいかな?」


 声が上ずらないように、舌先で抑える。


 彼は短くこちらを見て、眉をわずかに寄せた。


「別にかまわんが……」


 許可なのか、投げやりなのか、わからない。


 それでも、わたしは続けるしかなかった。


「ここ……よく来るの?」


 潮の匂いが鼻の奥へ降り、肺が少しだけひりつく。


 彼は手すりの向こうを見つめたまま答えた。


「ああ、天気が悪くない限り、ほぼ毎日な」


「毎日って? どうして?」


 思わず身を乗り出す。


 彼の横顔は綺麗すぎて、感情の輪郭が読み取れない。光と影の境目に置かれた作り物みたいなのに、声の奥だけは、ひどく生々しかった。


「ここで夕日を眺めていると、少しだけ心が休まるんだ。物事を冷静に考えるには、この場所が最適だと思っている」


 言葉は理屈っぽいのに、息の端だけがかすかに擦れていた。


 その擦れが気になって、わたしは間を埋めるように訊ねてしまう。


「……どんなこと、考えてるの?」


 自分で言って驚いた。踏み込みすぎだとわかっているのに、止まらない。


 彼は短く黙った。風が柵を鳴らし、金属がかすかに震える。


「いろいろ……かな。今まであったこととか、これから先のこととか……」


 その曖昧さが、逆に本当っぽく聞こえた。


 わたしは息を吐き、少しだけ肩の力を抜いた。


「そっか。教えてくれて、ありがとう。……あの、もしよかったら聞いてほしいんだけど、わたしがここに来た理由。あなたにはくだらなく思えるかもしれないけど……」


 言い終えると、舌の裏が乾いた。


 彼は驚いたように目を見開き、それから黙って頷いた。言葉はないのに、その沈黙が「話せ」と言っている気がして、わたしは少しだけ救われる。


 潮の匂いがまた強くなる。夕陽が低くなり、海の光が橙色へ寄っていった。


「わたし、繰り返し夢に出てきた景色を探していたの。なんていうか、自分なりの区切りをつけたくて……」


 声が途中で細くなる。喉に、ひっかかるものがあった。


「実はね、一年くらい前に雷の事故に遭っちゃって……頭に落ちたんだ。正直、助かったのは、運が良かっただけって言われてる」


 言った瞬間、左の額がじんと疼く気がした。


 わたしは無意識に指先をそこへ向けかけ、慌てて手を引っ込める。触れたら、またあの乾いたざらつきが返ってきそうだった。


「そのせいで、いろいろだめになっちゃった。学校にも行けなくなって、高校への進学も一年遅れ。やっと春からやり直せるようにはなったけど。で、いつの頃からか、変な夢ばかり見るようになったんだ。こことそっくりな場所が出てきて、ベンチには髪の長い女の子がいて、悲しそうに、ずっと何かを謝っていて……」


 言葉を吐き出すたび、喉が熱くなる。


 泣きたくないのに、声が勝手に揺れる。昨日は知らない相手に傷つけられたと思った。けれどいま、自分からその傷を見せている。そんなことをしている自分が、少し怖かった。


「最初は、どうせただの夢だと思った。でも、毎晩みたいに出てくるから……気になって仕方なくて。だから、せめて景色だけでも似た場所を見つけたら、わたしも前を向ける気がした。……それで旅に出たんだ」


 言い終えたとき、わたしはまばたきを繰り返した。


 泣く前の癖だった。


 彼は何も言わずに聞いている。冷たいのか優しいのか、まだ判別がつかない沈黙だった。けれど、昨日みたいに切り捨てられてはいない。そのことだけで、胸の奥が危うく揺れた。


 長い間が落ちた。


 波が寄せ、引き、また寄せる。


 彼は手すりに置いた指に、そっと力を入れた。金属がかすかに鳴って、白い柵が少しだけ震える。喉仏が一度だけ上下し、視線が海へ逃げた。


 昨日の「くだらない」が、いまになって彼自身の口の中で刺さっているみたいに見えた。


 彼が深く息を吸い、吐く。息の端に、ほんの少しだけ迷いが混じった。


「……そうか。そういうことだったのか。認めるよ」


 その言葉が、不意に柔らかい場所へ触れて、わたしは息を止めた。


「え……」


「お前には、ここに来る確かな理由があったんだろう」


 言いながら、彼はわたしを見ない。


 夕陽のほうへ目を細めたまま、言葉だけを落とす。謝っているのか、許しているのか、どちらともつかない。けれど、その曖昧さがかえって本当っぽくて、わたしは返事を探せなくなった。


「あ、ありがと……」


 それだけしか言えない。


 けれど、肩の内側から何かがすっと抜けた。潮の匂いを吸い込んだはずなのに、息がようやく軽くなる。


 彼は夕陽から視線を外さずに、次の言葉を落とした。


「これから、どうするんだ?」


 問いかけの形なのに、責める感じがなかった。


 わたしは少しだけ黙り、海の光を見た。波の白い線がほどけていく。眩しさに目が細くなる。


「目的も果たせたし、家に帰るよ。いつまでも落ち込んでいてもしょうがないし、ちゃんと前を向いて生きていこうって思う。また夢の中であの子に会えたら、わたしもっと強くなるよって教えてあげたい」


 言い切った瞬間、唇の端が震えた。


 恥ずかしいのに、後悔はない。胸の奥のどこかで、ずっと止まっていたものが、ほんの少しだけ前へ動いた気がした。


「……そうか……」


 短い返事。


 けれど昨日の「くだらない」とは違う重さで、波の音より静かに残った。


 夕陽がさらに沈み、海面の光の道が細くなっていく。彼の横顔は橙の縁だけをまとい、黒髪の影が頬へ落ちた。腹が立つほど整っている。


 わたしは勢いで息を吸い、言葉で場を壊すみたいに口を開いた。


「あ、そういえばまだ名前聞いてなかったね。わたしは……」


 言いかけたところで、彼が先に言った。


 視線は夕闇へ置いたまま。声だけが、こちらへ落ちてくる。


「俺の名は、弓鶴(ゆづる)だ」


 その響きを聞いた途端、背筋に薄い寒気が走った。


 理由がわからないのに、知っている気がする。どこかで、何度も呼んだことがあるような。あるいは、もう二度と呼べないと思っていた名前に、いきなり触れてしまったような。


 言葉にならないものが、喉の奥で結び目になる。


「……いい名前だね」


 わたしはそう言うのが精一杯だった。


 彼の瞳が夕闇の中で静かに煌めいて、その光だけが、まぶたの裏に深く残った。


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