第三話 流れる時間と心の波間
翌日、わたしは石与瀬の町を観光することにした。
目的地はひとまず見つかったし、今日の予定は妙に空っぽだった。空っぽなのに、昨夜はぜんぜん眠れなかった。
布団の中で目を閉じるたび、あの子の横顔が浮かぶ。黒髪が風に揺れ、夕焼けの縁だけを背負っていた顔。次に浮かぶのは、くだらない、と吐き捨てた、あの冷たい声だった。
思い出した瞬間、喉がきゅっと縮む。わたしは枕を抱き直し、長く息を吐いた。潮の匂いがまだ髪に残っている気がして、余計に腹立たしい。
起き上がってカーテンを開けると、朝の光がやけに真面目な顔で部屋へ差し込んできた。窓の外では鳥が鳴いている。朝は、昨日のことなんて最初からなかったみたいに、澄ました明るさでそこにあった。
「よし。今日は観光。逃げるとかじゃなくて、観光」
声に出すと、少しだけ気分が軽くなる。ついでに、自分の言い訳っぽさが可笑しくて、短く鼻で笑った。
タブレットを開き、バスの時刻を確認する。画面を拡大しようとして、左手の指が言うことを聞かず、変なところで止まった。ガラスの上で、指先だけが中途半端に固まる。
「……やめやめ。今日は器用さを競う日じゃないぞ」
右手で操作し直して、わたしは荷物をまとめた。
◇◇◇
バスに乗ると、シートはまだ冷たかった。
窓際に座り、ガラス越しに朝の海を眺める。光は澄んでいて、波の白さだけがきっぱり浮いている。
こんな景色、好きなはずだ。
好きだったはずだ。
なのに、景色の端にあの子の瞳が重なる。透き通っているのに、ひどく冷たくて、見られると息が浅くなる。
「忘れるって決めたのに……」
小さく呟いて、わたしは窓の外へ視線を押しつけた。風景が流れていく速さに、気持ちも置いていかれればいい。そんな乱暴なことを思いながら、膝の上でデイバッグの紐を握った。
◇◇◇
岬の灯台は、昼の光を跳ね返して真っ白だった。
近くまで行くと、コンクリートの壁がきらきらしていて、目が少し痛い。
「眩しっ……」
思わず壁に手のひらを当てると、ひんやりしていた。冷たさが皮膚からじわりと入り、頭の奥でざわついていたものが、ほんの少し静まる。
「……うん。これは効く」
わたしはひとりで頷き、らせん階段を上った。
足音が規則正しく響く。息が上がっても、嫌じゃない。登ることは、まだできる。左手がうまく動かなくても、身体の全部が失われたわけではない。そんな当たり前のことを、階段の硬い音がひとつずつ教えてくる。
頂上の風は強く、髪が一気に乱れた。
海が広い。
広すぎて、昨日の言葉がちっぽけに見える。見えるはずだった。なのに風の音の隙間へ、くだらない、という一語だけがまた刺さる。
わたしは目を細め、手すりを握った。金属は太陽で温まっていて、じんわり熱い。熱いのに、指先の奥だけが冷える。
「あの人……」
風が強く吹き、髪が頬をかすめた。
その感触に引かれるみたいに、視界の端で黒髪が揺れる。鼓動が跳ねた。睫毛の影が頬に落ちる。目だけが夕暮れの海みたいに深くて、底が見えない。
見惚れたはずなのに、思い出すと息が浅くなる。
「……ほんとに、黙ってればちょーきれいなのにな」
ぼそりと言ってから、言ってしまった自分に腹が立った。
褒めているみたいで、悔しい。
写真を一枚だけ撮り、さっさと灯台を降りた。
◇◇◇
次は水族館にした。
入り口の賑やかさに紛れれば、きっと忘れられると思った。思っただけだった。
アシカがボールを鼻で転がすたびに、子どもたちが笑う。わたしもつられて笑った。笑えたのに、笑い終わるとすぐ、あの子の横顔が戻ってくる。
イルカが跳ぶ。
水しぶきが光る。
歓声が波になって押し寄せる。
その瞬間、背中のどこかがひやりとした。跳ぶこと。宙に浮くこと。着地の衝撃。昔の感覚が、身体の奥でほんの短く再生される。
そこへ、くだらない、という声だけが遅れて差し込まれた。
「やめろってば……」
わたしは口の中で言い、肩をすくめた。
周りは楽しそうで、わたしだけが変だ。わかっている。わかっているから、なおさら厄介だった。
だから、食べ物で釣ることにした。
◇◇◇
海鮮丼は、見た瞬間に機嫌が直りそうな色をしていた。
ウニとイクラとホタテが小さな丼の中で並び、穴子天が横で威張っている。丼の上だけが、やたらと景気よく輝いていた。
「うふへへへ……はい、優勝」
つい頬が緩む。
店員さんが微妙に笑った気がした。恥ずかしい。でも、口に入れると本当においしくて、悔しいくらいにちゃんと幸せだった。
味に集中している間だけ、あの子の顔が薄くなる。わたしはその隙に、急いで食べた。急がなくていいのに、逃げ道を見つけた人みたいに、箸を動かし続けた。
◇◇◇
夕方。
バスで駅へ戻る道すがら、窓の外の景色がまた海の色に染まっていく。空が傾きはじめると、昨日の時間が勝手に近づいてくるのがわかった。
わたしはデイバッグの紐を握り直し、わざと別のことを考えようとした。
次の電車。
帰りの切符。
ロッカーの番号。
それなのに、頭の端であの子が立っている。手すりにもたれて、夕日を見ていた背中。綺麗なくせに冷たくて、冷たいくせに、なぜか寂しそうだった横顔。
「……なんで気になるかな」
声に出すと、余計に輪郭がはっきりした。
わたしは舌打ちしそうになって、代わりに大きく息を吐いた。
駅に着いて、改札の前で足を止める。
帰るなら、ここで終わりだ。列車の時刻もある。夕方六時の列車に乗れば、今日は綺麗に締まる。観光もした。おいしいものも食べた。ちゃんと一日を使った。そう思ったのに、足が勝手に坂のほうへ向いた。
「は? いや、ちがう。違うって」
わたしは自分に言い聞かせながら歩く。
言い聞かせている時点で、もう負けている気がする。
「別に会いたいわけじゃないし。あんな失礼な……」
続きが言えない。
舌の上で言葉が止まる。会いたくないと言い切ったら、何かが壊れそうだった。何が、とは言えない。ただ、胸より低いところで、昨日からずっと黙っているものがあった。
◇◇◇
石御台公園。
鳥居の影が伸びている。砂利がしゃり、と昨日と同じ音を立てた。
展望台までの道は、もう覚えている。木々の葉擦れ。鳥の声。遠い波の音。全部が昨日の続きをしていて、わたしだけが置き去りにされたみたいだった。
白い柵が見えた。
夕焼けが、海の表面に細い道を作っている。
わたしはベンチの手前で立ち止まり、息を整えた。喉の奥が熱い。
「……どうせ、いるわけないでしょ」
言ったのに、目は手すりのほうを探してしまう。
風が吹いた。髪が頬に触れて離れる。その短い間だけ、耳の奥に小さな声が混じった気がした。
ごめんね、と聞こえた気がしただけなのに、耳の奥にはまだ薄い湿りが残っていた。
わたしはベンチに腰を下ろし、海を見た。夕日が沈むまで、あと少しだった。ベンチの板は昨日と同じように背中へ硬く、海風は髪に残った潮の匂いを何度もほどいていく。
楽しみたかった。
振り切ったことにしたかった。
それなのに、結局、わたしはここに戻ってきてしまった。




