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第二話 夢で見た情景と不思議な男の子

 駅を出た瞬間、潮の匂いが頬にまとわりついた。


「ほえーっ……」


 自分でも間抜けだと思う声が、喉の奥でころんと転がる。


 商店街は小さかった。古い看板が軒先にぶら下がり、店先の色褪せた幟が海風にゆっくり揺れている。それなのに、どこか新しい。海から吹いてくる湿った風が、知らない土地の輪郭を、いきなり肌へ押し当ててくるせいかもしれなかった。


 わたしはロッカーにキャリーケースを預けた。鍵の冷たさを指に残したまま、デイバッグの紐を肩で直し、タブレットを取り出して地図を開く。


 高台へ伸びる細い道と、鳥居の写真。


「うん。ここ。たぶん、ここだよね」


 画面を指で拡大すると、指先がガラスの上をすべった。乾いたざらつきが、ほんのわずかに走って、すぐ消える。


 気のせい。


 そう言い聞かせるみたいに、わたしは指を離した。


 商店街を抜けるにつれて、人の声が遠のいていく。木造の家が並び、庭先の花が午後の光を受けて揺れていた。土の匂いと、蜜に似た甘さが混ざり、鼻の奥へふわりと残る。


「え、待って。花きれいすぎない?」


 誰に言うでもなく呟きながら、わたしは坂道に足を踏み入れた。


 想像より急だった。足裏にじわりと熱が溜まり、背中のシャツが少しずつ湿っていく。それなのに風だけは涼しくて、その涼しさが、かえって現実をはっきりさせた。


「うわ、坂きっつ。容赦なさすぎ……」


 笑って誤魔化した声が、少しだけ震えた。


 汗のせいだけじゃない。高くなるにつれて、海の気配が濃くなる。夢の中で嗅いだはずのない匂いに近づいていくようで、身体のどこかが勝手に身構えた。


 視界が開けた。


 屋根の連なりの向こうで、海がまぶしく光っている。波の白い線が遠くにほどけて、わたしは息を止めた。


「……うそ。海、近っ」


 言った途端、喉の奥がからりと乾いた。


 嬉しいはずなのに、胸ではない、もっと低いところがひやりとする。わたしはその冷えを無視するみたいに、歩幅を少しだけ広げた。


 小さな石の鳥居が見えた。風が木々を揺らし、葉擦れの音が耳の奥へやさしく沈む。地図で何度も確かめた石御台公園は、鳥居の向こうで、思っていたよりも静かに口を開けていた。


 鳥居をくぐると、足元の砂利がしゃり、と乾いた音を立てる。木立の匂いが濃くなり、肌の表面が少しだけ冷えた。


「ここで合ってるはずなんだけどな……」


 自分に言い聞かせるように呟く。


 期待と不安が入り混じって、足だけが先に進んでいく。胸の内側では、まだ追いつけない何かが、細く息をしていた。


 しばらく歩くと、木立の間から視界がぱっと開けた。


 白い柵に囲まれた展望台。海がどこまでも続いていて、左手の岬の先に、白い灯台が霞の向こうに浮かんでいる。


 その形を見た瞬間、夢で何度も見た夕暮れが、胸の奥で音もなく重なった。


「あ……」


 夕焼けに染まった空と海が、紅と紫の境目を溶かしていく。


 あまりにもきれいで、言葉が出なかった。頬に風が当たるのに、目の端だけが熱い。


「本当に……あったんだ。夢でなんども見た。あの景色……」


 声がかすれて、自分のものではないみたいに聞こえる。


 夢だと思っていた光景が、いまは塩の匂いと潮騒を伴って目の前にある。現実と夢の境目が、霧のように薄くなっていった。


 ベンチに腰を下ろすと、木の板がきい、と小さく鳴った。背中へ当たる風は少し塩っぽく、汗の冷えがじわりと広がる。


「やっと……見つけた……」


 呟いた瞬間、喉の奥がひりついた。


 嬉しいのに、何かを失くしたみたいな痛みも混じっている。わたしは掌を膝の上で握り直し、左手の指が動かないことを思い出して、黙った。


 写真くらい撮っておこうかな、と立ち上がる。タブレットの画面が夕光を反射して、目にちかちかした。


 そのとき、右側から人の気配がした。


 手すりにもたれながら夕日を見つめている、ひとりの男の子。


 背丈はわたしよりちょっと低めだった。華奢な体つきが、夕陽の中に長い影を落としている。黒髪が風に揺れ、睫毛の影が頬へ落ちていた。


 信じられないほど綺麗で、鼓動が跳ねた。


「……うそ……あんなにきれいな男の子って、現実にいるんだ……」


 口の中で呟いた自分が恥ずかしくて、咳払いで誤魔化す。海風が唇の端を舐めて、塩が少しだけ残った。


 それでも視線は外れない。


 わたしは一歩近づいた。


「こんにちは」


 声をかけた瞬間、彼の瞳がすっとこちらを刺した。


 獰猛な野生動物みたいな光だった。美しさの裏側で、薄い刃がひらめく。


「何か用か?」


 やや高めの声なのに、口調が暗い。冷たさがぴしゃりと、わたしとの間に壁を作った。手すりの金属が風に鳴り、薄い震えが空気に残る。


「えっと……地元の人かなって思って」


 笑顔を作ろうとして、うまくいかない。わたしはタブレットを抱え直し、慌てて話題を探した。


「わたし、観光で来たんだけど、地元の人しか知らないおすすめスポットとか、あったりする?」


 彼はしばらく黙り、視線を海へ戻した。


 沈黙が長くなるほど、わたしの心だけが勝手に焦る。潮騒の音が、少しずつ大きくなる。


「あるにはあるが、俺はそういうものに興味はない」


「あ、そういうことって、あるよね」


 わたしがそう言うと、彼は夕陽を見つめたまま、低く続けた。


「強いていえば……たぶん、ここだな」


 その一言が、わたしの中にすとんと落ちた。


 見たやつにしかわからない、という言い方が、妙に正しい。


「うん。ここ、すごい。来てよかったって思う」


 彼の表情が、ほんの少しだけゆるんだ気がした。笑ったわけではない。それでも、空気が一段だけやわらかくなる。


「そうか……」


 わたしは少し安心して、もう一歩踏み込んでしまった。


「ねえ、あなたはここで何してたの?」


 海風が強く吹き、髪が頬に張りついて、すぐ離れた。彼はそれを気にもしない。


「何って……ここに来て景色を見ながら考え事をしてるだけだ」


「わかる。わたしもさ、こういうとこ来ると、つい、いろいろ考えちゃうんだよね」


 言いながら、わたしは息を吸った。


 潮の匂いが肺の奥へゆっくり降りていく。だから、言ってしまった。ここに来た理由を。


「実はね。ちょっと前に大変なことがあって、それでずっとこの景色を探して旅してたんだよ」


「探していた?」


 彼の声が、ほんの少しだけ強張った。


 手すりを掴む指に力が入り、爪の色が白くなる。その変化はあまりに小さくて、気づいたことのほうが間違いなのかもしれないと思った。


 けれど、海風に冷えた白い柵だけが、彼の手の下でかすかに鳴っていた。


「うん。何度も夢に出てきた光景があって、それがここにすごく似ててね……だから、ほんとに嬉しい」


 言い終えた瞬間、彼はふっと笑った。


 笑いなのに、あたたかさがない。


「夢の景色だと? はっ、くだらん……」


 笑ったはずなのに、彼の指は手すりを握りしめたままだった。爪の先が、夕陽の中で白く浮いている。


 わたしを馬鹿にしているのだと思った。そう思えば、ただ腹を立てれば済むはずだった。


 けれどその横顔は、怒っているというより、何かを必死に遠ざけているみたいにも見えた。


「え……?」


 息が詰まった。潮の匂いが急に苦くなる。


「どうして……そんなこと言うの?」


 問いかけた声が、情けないくらい震えた。


 彼はわたしを見ないまま、刃みたいな口調で返す。


「馬鹿げているからだ。実にくだらない」


「初対面の相手に、そこまで言わなくてもよくない?」


 腹の底から、じわりと熱いものが湧く。わたしはそれを押さえつけるみたいに、デイバッグの紐を握り直した。


「夢というものは、眠っている間に記憶の欠片が寄せ集められて、勝手に組み替わる過程にすぎんだろ」


「なにそれ?」


「……そんなことも知らないのか?」


「知るわけないじゃん」


 言い返した途端、頬が熱くなった。


 悔しいのか、恥ずかしいのか、わからない。彼の目がほんのわずかに揺れた気がしたのに、すぐ冷たく固まる。


「お前が見たという夢も、昔の体験の切れ端が混ざっただけかもしれない。表に出てこないだけで、どこかに残ってるはずだ」


「そんなはずないもん。親にも聞いたし、昔の写真だって漁ってみたけど、何もわからなかったんだから」


「いいや、ただの思い違いだ。そもそも夢などという曖昧なものを信じるなど、理解に苦しむ」


 わたしは唇を噛んだ。


 喉の奥がひりついて、泣きそうになるのを堪える。彼の声はわたしを切り捨てているのに、手すりの金属がまた小さく鳴った。


 何かを押し殺したみたいなその音まで聞こえてしまって、余計に腹が立つ。


 ――黙ってればきれいなのに。なんで喋るとこうなの。


 心の中で悪態をついて、やっと自分を支えた。


「ああ、そう……。じゃあわかったから、せめて頭ごなしに否定しないでよ。わたしだって真剣に考えて、ずっと探してたんだから」


 声が震えた。


 彼はそっけなく海を見つめたまま、吐き捨てるように言う。


「知ったことか」


 その一言で、胸の奥がすうっと冷えた。


 さっきまでの景色が、少しだけ遠のいた気がする。


「……わたし、何を期待してたんだろう」


 言葉が自分に刺さって、痛い。


 わたしは背を向けた。砂利がやけに大きく鳴る。風が背中を押して、早く帰れと言われているみたいだった。


「ごめん。もういいや、帰る」


 歩き出しても、何度か振り返ってしまう。


 彼が手すりのそばに立っているのが見えて、心がちくりと痛んだ。沈む夕陽が、その横顔の寂しさだけを浮き彫りにしている気がする。


 あんなに冷たいことを言ったのに、彼は少しも勝った顔をしていなかった。


「忘れよう……」


 自分にそう言い聞かせて、石段を降りていく。


 それなのに耳の奥には、さっきの冷たい声がこびりついたままだった。


 くだらない。


 その言葉の隙間に、もうひとつ別の声が混じる気がした。


 ごめんね。


 聞こえた気がしただけ。たぶん。


 暮れかけた空を見上げる。雲の色が少しずつ濃くなっていく。


 忘れようとすればするほど、白い手すりを握りしめた彼の指と、夕陽に削られた横顔だけが、まぶたの裏へ戻ってくる。


 その下で、胸よりも低い場所に、何かがじっと息をひそめている気配だけが残っていた。


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