第十話 届けたい思い
その重く響く声が、わたしの心を震わせた。
耳ではなかった。胸の内側の骨に、低い音が直接触れてくるみたいだった。
「誰……誰なの?」
慌てて周りを見回す。
見えるのは、戦闘服の男たちだけだった。誰も口を動かしていない。それなのに、声だけが頭の内側で反響している。潮の匂いも、濡れた髪の冷たさも、その奥へ沈んでいく。
――そんなの、いいわけないじゃん。ううん、ぜったいだめ……。
反抗の念が跳ねた瞬間、もう一度、同じ場所から音が落ちた。
《《そうだ、君にもできることがある》》
――わたしにできること……?
《《君なら届けることができる。だって君は……》》
そこで途切れた。
言葉の端だけが熱を残して、喉の奥へ引っかかる。
――届けるって、なにを……?
答えは出ない。けれど、胸の奥に小さな灯がともった。さっきまで足首を縛っていた冷えが、ほんの少しだけほどけていく。怖いのに、怖さの底に、別の硬いものが生まれる。
ふっと、弓鶴くんの顔が浮かんだ。
冷たい目の奥に、昨日とは違う影があった。あの黒に呑まれていく背中が、遠ざかっていくのが嫌だった。
――ほっとけない。
「だって……わたし、まだ名前を伝えてない」
口に出した瞬間、変に可笑しかった。
でも、それがいちばん大事みたいに思えた。わたしがここにいる証拠。わたしの手で、まだ彼へ渡せるもの。
深呼吸をする。
潮の匂いが肺へ落ちて、胸の内側がじんと痛んだ。男の人たちの指示が飛び交い、金属が擦れる音が混じる。その中で、わたしの足だけが、別のリズムを刻み始めた。
半歩。
砂利が靴底で鳴る。濡れた髪が首筋を冷たく撫で、背中に汗が落ちた。
もう半歩。
弓鶴くんの背中の黒がうねる。鳴海沢が倒れた先を、彼は見ていない。見ているのはもっと遠い場所だった。そこへ引かれていくみたいに、足が進む。
「弓鶴くんっ、もうやめて!」
声は風に攫われ、届かない。
黒の縁に触れた瞬間、音が薄くなる気がした。自分の声なのに、遠い。濡れた砂利の上へ落ちて、そこで消えていく。
「これじゃダメだ。わたしの声なんて届かない。もっと近くに行かなきゃ……」
藤堂さんの手が肩に置かれた。
重い。硬い。
――はずだった。
次の瞬間、圧がふっと消えた。
服の布も引かれない。藤堂さんの指はわたしの肩をすり抜けて、手のひらが空を掴んだまま止まる。彼の瞳が一度だけ焦点を失い、まばたきのあと、わたしを探し直すような目になった。
わたしは振り払っていない。
なのに、止められない。
足だけが、勝手に前へ出ていく。
そのとき、背後で息を呑む気配がした。
「なっ、何だと……!?」
驚きの声が遠い。
わたしの視界は、弓鶴くんだけに細く絞られていく。息が浅くなる。体の中心が一点に集まって、周囲の色が少しずつ薄くなった。
――大丈夫。あれと同じ。
バイクトライアルのセクションに入る前。
失敗したら痛いのに、成功の線だけが見える、あの変な静けさ。足裏の感覚が冴えて、時間が少し遅くなる。音も、光も、風も、必要なものだけが線になって残る。
――目の前にある。なら、掴み取らなきゃ。繋がるまで、この手を伸ばし続けるんだ。
そう思った途端、視界が暗転した。
「えっ……?」
怖いはずなのに、その黒はただの暗がりではなかった。
目を閉じたときに見えるものではない。目の前の世界そのものが、別の色で塗り替えられたようだった。
その黒の中で、白い靄に包まれた人影が浮かび上がった。
「これって、弓鶴くんなの?」
理由はわからない。
けれど、そうだとわかる気がした。白い靄は遠いのに、同時に近い。指先を伸ばしたら触れてしまいそうで、触れたら消えてしまいそうな距離にある。
靄の中で、輪郭が少しずつ形を持ち始める。
わたしの呼吸だけが、妙に大きく聞こえていた。
進もうとした足が、前へ出ない。動きだけが遅れて、身体が鉛みたいに重い。空気が粘る。肌に見えない手が触れて、押し返してくるみたいだった。
「えっ!? どうして?」
焦りに喉がきゅっと縮む。
そのとき、白く濁ったものがぽつぽつと浮かび上がった。霧でも煙でもない。もっと硬い、重い、空気の塊。陽の残りが当たると、輪郭だけがわずかに白く滲む。
――もしかして、これって……さっき藤堂さんたちが言ってた、近づけないってやつ?
見えないはずなのに。
わたしの目には、確かに見える。見えてしまうことが、いちばん怖い。
「なんか……見える……」
白い塊がひとつ、ふわりと寄ってくる。
近づくほど、耳が詰まった。気圧が変わる。息が吸いにくい。
避けようとしても身体が遅い。けれど、頭だけが妙に冴えていた。セクションに入る前の、あの静けさに似ている。外界が遠のいて、目の前の線だけが残る。
――右へ。いける。いま。
ひとつをかわした途端、背後で音が弾けた。
見えない壁が叩きつけてくるみたいな風。肩が持っていかれそうになるのを、足首と腰で噛み直す。砂利が靴底で跳ねて、爪先が微かに滑った。
次は低い。
白い塊が、膝の高さで走る。
――かわす。間に合う。
避けたはずなのに、皮膚が薄く痛んだ。空気が擦れている。圧の縁が、そこに触れたのだと遅れてわかる。
白い塊がもうひとつ。
今度は上。
視界の端で、光の筋が揺れる。空気が凝っている。固くなっている。
――逃げるんじゃない。抜ける。
身体が覚えている。
倒れない角度。踏ん張る位置。息を吐くタイミング。わたしはそれを、まだ失くしていなかった。
そして――ようやく追いついた。
「やっと追いついたよ、弓鶴くん」
伸ばした右手が、彼の手に触れた瞬間だった。
「うげっ!?」
触れたところから、何かが流れ込んでくる感覚に襲われた。
冷たいのに熱い。底なしの暗い色が、舌の裏に苦い味を落としてくる。皮膚の内側を、ぬるい影が撫でていく。
「ううっ……」
吐き気がこみ上げ、視界がぐらりと歪んだ。耳鳴りがひどい。頭が重くて、息が吸えない。
離したら楽になる。
そのことだけはわかった。なのに、離したくないという反射だけが先に来る。
――弓鶴くん……これが君の心なの? 憎しみ? 悲しみ?
闇が濃すぎる。
痛みと恐怖と孤独が絡まって、ほどけないまま沈んでいる。勝手に涙が溢れて、頬を熱く伝った。涙の温度があるのに、胸の中は冷えていく。
「やっぱり、止めてあげなきゃ……だって、泣いてるもの」
わたしは彼の手をさらに握りしめた。
指先が白くなる。手のひらの向こうから伝わる冷たさが、骨にしみる。
「弓鶴くん、もういい! やめて!」
声が震える。
けれど離さない。離したら、彼がもっと遠くへ落ちていく気がした。
「……ころしてやる……」
返事はない。
声だけが遠い。わたしの言葉が届かない場所で、同じ音が反復している。
そのとき、彼の背中の黒が音もなく蠢いた。
「わっ!?」
黒はわたしの身体へまとわりついてくる。
影が布みたいにかぶさるのに、触れた感触がない。冷えも熱もない。物体じゃない。幻なのに、目だけは奪われる。
息が詰まり、瞼を閉じる。
閉じても黒は消えず、まぶたの裏でうねった。
――だめだ。
「負けられない、こんなものに!」
声を絞り出し、握った手を離さないまま踏ん張る。
足裏に砂利が刺さる。痛みが現実をつなぎ止める。わたしはもう一度、呼吸を取り戻そうとした。




