第十一話 わたしたちのツバサの物語の始まり
あの声が途切れた瞬間、みぞおちの奥で、ばらばらになりかけていたものが静かに沈んだ。
怖さが消えたわけではない。ただ、喉の奥に残った熱だけが、わたしをそこに立たせていた。
「弓鶴くん……」
濡れた砂利が靴底に噛み、踏みしめるたび小さく鳴る。その音だけが、やけに近かった。わたしは握っていた手を胸元へ寄せるようにして、彼の背へ右腕を回した。
布越しの背中は、冷えていた。骨の角がわかるほど薄く、腕の内へ入れた途端、どこか遠いところから拾ってきた硝子細工みたいに思えた。
「……救けてくれてありがとね」
耳元へ落とした声は、潮風にすぐほどけた。けれど、鼻の奥には焦げたような苦さが残る。海の匂いの下に、熱を失った灰の匂いが混じっていた。
「ぐうぅぅ……」
唸りは胸からではなく、足元の砂利の下から響いてくるようだった。わたしは息を詰め、彼の体温を探すみたいに、もう少し身体を寄せる。
「あなたの過去に何があったのか、わたしにはわからない。どうしてあの人を憎んでいるのかも、知らない。でも、もういいの。やめようよ……」
言い終えたあと、指先が勝手に震えた。
気づかれたくなくて、背中の布をぎゅっと掴む。濡れた布は冷たく、爪の先で頼りなく沈んだ。
「弓鶴くん」
頬を伝うものがあった。風に触れて冷え、そこでようやく涙だとわかる。抱きしめているのはわたしのほうなのに、彼の冷たさが腕から胸へ移ってくる。熱を分けているつもりで、こちらのほうが少しずつ削られていくようだった。
背中にまとわりつく黒い影は、まだかすかに蠢いていた。触れているはずなのに、感触だけがない。目だけを塞ぎ、息だけを浅くする、幻のような黒だった。
「う……」
彼の身体が、びくりと震えた。
殺意の言葉が途切れる。その隙間に、細い空気が戻ってくる。わたしは初めて、自分がずっと息を止めていたことに気づいた。
「お願い、弓鶴くん。戻ってきて!」
声が風へ散るより早く、彼の肩がわずかに落ちた。
「うっ、ううっ……」
小さな呻きだった。けれどそこには、さっきまでの冷たい濁りとは違う、ひとの喉を通った音があった。わたしは腕をほどけなかった。ほどいたら、そのままどこかへ流れてしまいそうで。
次の瞬間、背中の黒が音もなく消えた。
張りつめていた空気がふっと緩み、彼の身体が重さを失ったみたいに崩れる。
「あっ、わっ、わっ」
慌てて抱き止める。
思っていたよりずっと軽かった。細い骨の感触が腕へ食い込み、胸の奥がひやりとする。
周囲を塞いでいた圧がほどける。海風が頬を撫で、遠くの海鳥の声が、遅れて耳に届いた。世界に音が戻ってくるだけで、目の奥がまた熱くなる。
「もう大丈夫だよ、弓鶴くん」
言ってから、やっと肩で息をした。心臓はまだ乱暴に鳴っている。けれど、喉を通る空気だけは少しずつ広がっていった。
「ああ、よかった……。ほんと、どうなるかと思ったよ」
彼が聞いているかはわからない。
それでも、いまはここにいる。腕の中の重みと、掌に残る冷えだけが、確かにそう告げていた。
――わたしが救けたわけじゃない。
声を届けただけ。気持ちを、彼のいる場所まで押し出しただけ。
戻ってきたのは、彼自身の意志だった。
そう思うと、胸の底で何かがやわらかくほどけた。けれど同時に、簡単には触れてはいけないものに触れてしまった気もした。
覗き込むと、さっきまでの狂気が嘘みたいに、彼の顔は静かだった。睫毛の影が頬へ落ち、薄い息が規則正しく抜けていく。あまりに無防備で、見ているこちらのほうが、目を逸らしたくなる。
「弓鶴くん、あなたってどんな人なの? わたし、あなたのこともっとよく知りたい……」
右手の指先で、そっと髪に触れる。
濡れた糸みたいに冷たかった。撫でても起きない。そのことが怖いのに、ほんの少しだけ安心している自分もいた。
「弓鶴くん……」
名前をもう一度、確かめるように呼ぶ。潮の匂いが肺の奥まで落ち、砂利の湿り気と海風の冷たさが、遅れて現実を形づくっていく。
そのとき、不意に脳裏をよぎった。
『ごめんね……』
夢の中の声。
長い黒髪の少女。背中越しに聞こえたすすり泣き。触れようとしても届かなかった細い肩。その気配がいま、すぐ隣に膝をついているみたいに近かった。
わたしは喉を鳴らす。
「いやいや、さすがにそれはないって。どう見たって男の子だし。わたしったら、なに考えてるんだろ」
自分で言って、自分で苦く笑った。
けれど、笑いはすぐに風へ溶けた。どこかで、たしかに共鳴している。理由はない。説明もつかない。ただ、髪に触れた指先だけが、夢で聞いた声の温度を覚えてしまっている。
――わたし……やっと見つけたのかも。
その思いは、波音に紛れていった。
怖い。怖いのに、逃げたいとは思わなかった。胸の奥で、まだ名を持たないものが、小さく羽ばたこうとしている。
ふと、耳にかすかな囁きが届いた。
気のせいかと思って顔を寄せる。彼の唇が、ほんの少しだけ動いた。
「ん、なあに?」
わたしは彼の手を握り直した。冷えた指先を包み、自分の熱を少しずつ移す。肌の下の脈はまだ弱い。それでも、途切れてはいなかった。
この静かな一歩が、どこへ繋がるのかはわからない。
ただ、潮風の向こうで、ふたつでひとつのツバサ、というまだ意味を持たない響きだけが、微かに鳴っていた。




