第九話 もう一度の宿
清吉が旅籠を出てから、三月ほどが過ぎた。
季節は秋から冬へ向かっていた。
朝の水は冷たくなり、夕暮れが早くなった。
そして、咲はいつの間にか、はいはいをするようになっていた。
「咲!」
おきぬの声が帳場から飛ぶ。
返事はない。
もちろん、まだ返事などできない。
けれど、畳を這う小さな音がする。
ずる。
ずる。
ずる。
「また行ったね」
喜助が振り返る。
さっきまで布団の上にいたはずの娘が、いつの間にか部屋の隅まで移動している。
「目を離すと、すぐこれだよ」
おきぬが笑いながら追いかける。
咲は楽しそうに手を伸ばしている。
「何がそんなに面白いんだか」
喜助が抱き上げる。
咲は声を上げて笑った。
「お前、ずいぶん元気になったな」
小さな手が、喜助の着物を掴む。
生まれたばかりの頃は、腕の中にすっぽり収まっていた。
それが今では、抱いていると身体をよじって降りようとする。
「もう少ししたら、歩き出すねえ」
おきぬが言う。
「まだ先だろ」
「子どもは早いよ」
そんな話をしていた日の夕方だった。
表の戸を開ける音がした。
「いらっしゃいませ」
喜助が顔を上げる。
戸口に、一人の青年が立っていた。
背に荷物を負っている。
見覚えのある顔だった。
「……清吉?」
青年が顔を上げた。
「あ」
清吉も目を見開いた。
「喜助さん」
「お前、どうした?」
「また、泊めてもらえますか」
「もちろんだ」
喜助は笑った。
「よく来たな」
清吉は頭を下げた。
「お世話になります」
*
夕餉の席で、清吉は以前より少しだけ顔つきが変わっていた。
日焼けした頬。
伸びた髪。
それでも、どこか見覚えのある表情だった。
おきぬが咲を抱いて帳場に出てくると、清吉はすぐに気づいた。
「お嬢さん……」
咲が清吉を見る。
そして、畳に手をついた。
ずる。
ずる。
小さな身体が、清吉のほうへ向かっていく。
「え?」
清吉が慌てて膝をついた。
咲は迷いなく進んでくる。
「おいで」
清吉が手を伸ばす。
咲はその手を掴んだ。
「……覚えてるんでしょうか」
「どうだろうねえ」
おきぬが笑う。
「でも、嫌がってはいないね」
清吉は咲を抱き上げた。
「大きくなりましたね」
「三月だからね」
「はい」
清吉は咲の顔を見ながら笑った。
「前に会ったときは、まだ寝てました」
「今は寝てる暇なんかないよ」
おきぬが言う。
「どこへでも這っていくからね」
咲が清吉の着物を掴む。
「ほら」
おきぬが笑う。
「もう離してくれない」
「……困りましたね」
そう言いながら、清吉は嬉しそうだった。
*
夜。
咲が眠ったあと、三人で帳場に座った。
「今度は、どこへ行くんだい?」
おきぬが尋ねる。
「江戸へ行こうと思っています」
清吉は答えた。
「江戸?」
「はい」
「奉公先は決まったのか?」
喜助が聞く。
清吉は首を横に振った。
「まだです」
「それなのに?」
「はい」
清吉は少し笑った。
「実家へ戻ってから、しばらく家の手伝いをしていました」
「農家だったね」
「はい」
「それで?」
「……三男なので」
清吉は湯呑みを見た。
「兄が二人いますから」
それ以上は、すぐに言葉が出なかった。
「家にいても、仕事はあります。でも、自分がいることで、兄たちの分まで狭くなるというか……」
おきぬは黙って聞いていた。
「だったら、外へ出ようと思いました」
「江戸へ?」
「はい」
清吉は頷いた。
「江戸なら、奉公先もたくさんあると聞きます」
「決まってなくても行くのかい?」
「……行ってみようと思っています」
少しだけ照れたように笑う。
「何もしないで待っているより、探しに行ったほうがいいかなと」
喜助は清吉を見ていた。
まだ若い。
けれど、自分の行く先を自分で探そうとしている。
「そうか」
喜助は湯呑みを置いた。
「だったら」
清吉が顔を上げる。
「江戸へ行く前に、うちで働いてみないか」
「……え?」
清吉は固まった。
おきぬが笑う。
「私も、それがいいと思うよ」
「でも……」
「何かね?」
「江戸へ行くつもりで……」
「江戸へ行かなくちゃいけない理由があるのかい?」
おきぬに聞かれて、清吉は黙った。
「奉公先を探してるんだろう?」
「はい」
「だったら、ここも奉公先だよ」
清吉は喜助を見る。
喜助は静かに頷いた。
「旅籠の仕事は、商家とは違う」
「はい」
「だが、人を相手にするところは同じだ」
喜助は帳場を見た。
「客の飯を出して、布団を敷いて、荷物を運ぶ。朝になれば見送る。そういう仕事だ」
「……はい」
「それでもよければ」
喜助は少し間を置いた。
「うちで働いてくれないか」
清吉は俯いた。
しばらく何も言わなかった。
やがて顔を上げる。
「……いいんですか」
「こっちから言ってるんだ」
喜助が笑った。
「もちろんだよ」
おきぬも頷く。
「咲も、あんたのこと気に入ってるみたいだしねえ」
その言葉に、清吉は咲の眠っている部屋を見た。
小さな寝息が聞こえる。
「……よろしくお願いします」
清吉は深く頭を下げた。
喜助は頷いた。
「こちらこそ」
*
その夜。
清吉は用意された布団に横になった。
江戸へ行くために背負っていた荷物は、まだ部屋の隅に置いてある。
けれど、明日からは必要ない。
少なくとも、今すぐには。
外では冬の風が戸を揺らしている。
遠くで旅人の足音が聞こえた。
清吉は目を閉じた。
ほんの三月前。
この宿を出たときには、自分がまたここへ戻ってくるとは思っていなかった。
まして。
ここで働くことになるなんて。
翌朝。
喜助は宿帳を開いた。
そこには三月前の文字が残っている。
――清吉。
喜助はその名前をしばらく見ていた。
そして、その下に新しく一行を書き足した。
**奉公人として、今日より働く。**
筆を置く。
旅人として泊まった青年が。
今日から、この宿の人間になる。
朝の光が帳場へ差し込んでいた。




