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宿帳  作者: 灯野 しおん
第一章 喜助とおきぬ

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第八話 旅の途中

 咲が生まれてから、半年ほどが過ぎた。


 春に咲いた桜は散り、梅雨が来た。


 雨の日には、旅籠の軒先から落ちる雫を眺めながら、おきぬが咲を抱いていた。


 夏になると、蝉の声が朝から晩まで聞こえた。


 暑い日は、客が帰ったあとに喜助が戸を開け放つ。


 風が通ると、おきぬが、


「少し涼しくなったねえ」


と言う。


 そんな日々を重ねているうちに、咲は少しずつ変わっていった。


 生まれたばかりの頃は、ただ眠っていることが多かった。


 泣いて、飲んで、眠る。


 それだけだった。


 けれど、今は違う。


 寝返りを覚えた。


 布団の上に寝かせておいても、しばらくすると身体の向きが変わっている。


 気がつけば、少し離れたところまで転がっていることもあった。


「咲」


 おきぬが声を上げる。


「また動いたのかい」


 咲は布団の端で、得意そうな顔をしていた。


「いつの間に……」


 喜助が抱き上げる。


「もう目を離せないねえ」


「まだ寝返りだけだろう」


「その寝返りが怖いんだよ」


 おきぬは笑った。


 最近は、腰も少しずつしっかりしてきた。


 支えてやると、短い間なら身体を起こしていられる。


 その姿を見るたび、喜助は驚いていた。


「この前まで、こんなに小さかったのにな」


「毎日見てると分からないけどね」


 おきぬが咲の頬を撫でる。


「子どもってのは、知らないうちに大きくなるもんだよ」


 秋になった。


 朝晩の風が冷たくなり、夏の間ずっと聞こえていた蝉の声も、いつの間にか消えていた。


 旅人の着物にも、少しずつ厚みが戻ってきた。


 旅籠の前を通る人の足元から、乾いた音が聞こえる。


 そんな秋の日の夕暮れだった。


 喜助が表の戸を閉めようとしていると、一人の青年が歩いてきた。


 背に小さな荷物を負っている。


 年は十七、八ほど。


 旅人にしては荷物が少ない。


 疲れているようにも見えたが、足取りには若さがあった。


 青年は旅籠の前で立ち止まり、看板を見上げた。


 そして、少し迷ったあと、戸口へ近づいた。


「泊まりかい?」


 喜助が声を掛ける。


「あ、はい」


 青年は頭を下げた。


「一人です」


「部屋は空いてるよ。上がりな」


「ありがとうございます」


 青年は草履を脱いだ。


「名前は?」


「清吉と申します」


「清吉さんだな」


「はい」


 喜助は宿帳を開いた。


「どちらから?」


 清吉が故郷の名を告げる。


 喜助はそれを書き留めた。


「今日はどこまで行くつもりだったんだい?」


「実家へ戻る途中です」


「そうか。日が暮れちまったからな」


「はい」


 喜助はそれ以上聞かなかった。


 旅人には、それぞれ事情がある。


「夕餉はすぐ用意できるよ」


「お願いします」


 清吉はもう一度、頭を下げた。


     *


 夕餉の支度が整う頃。


 おきぬが咲を抱いて帳場へ出てきた。


「喜助さん、お客さんは?」


「今、夕餉を食べてもらってる」


「そうかい」


 おきぬは咲を膝に座らせた。


 咲は見慣れない顔を見つけると、じっとそのほうを見る。


 清吉も気づいた。


「お嬢さんですか」


「そう」


 おきぬが笑う。


「咲っていうんだよ」


「咲ちゃん」


 清吉が小さく言った。


 その声に反応したのか、咲が清吉のほうへ顔を向けた。


「おや」


 清吉が笑った。


「よく見てますね」


「最近、何でも見るようになってねえ」


 おきぬが咲の身体を支える。


「前は寝てるだけだったんだけど」


「半年くらいですか?」


「よく分かったね」


「妹がいますから」


 清吉はそう答えた。


「小さい頃を少し覚えています」


 おきぬが頷いた。


「そうかい」


 その短いやり取りの間にも、咲は清吉を見ていた。


 清吉が少し顔を近づける。


 咲は瞬きをした。


「……かわいいですね」


「そうだろう」


 喜助が横から言った。


「お前、親馬鹿だねえ」


 おきぬが笑う。


「だって、かわいいだろう」


「はいはい」


 清吉も笑った。


 その笑顔を見て、おきぬはほんの少しだけ目を細めた。


     *


 夜。


 咲を寝かせたあと、三人で少し話をした。


 清吉は、江戸の商家で奉公していたという。


「何年くらい?」


 おきぬが尋ねる。


「二年ほどです」


「そうかい」


「主人が亡くなりまして」


 清吉は湯呑みを両手で包んだ。


「店を畳むことになったんです」


「それで、実家へ?」


「はい。一度戻って、それから次の奉公先を探そうと思っています」


「なるほどな」


 喜助は頷いた。


「大変だったねえ」


 おきぬが言う。


「いえ」


 清吉は首を横に振った。


「仕方のないことですから」


 その言い方が、少しだけ大人びて聞こえた。


 まだ若い。


 けれど、奉公先を失い、一人で旅をしている。


 喜助は、そんな清吉を見ていた。


「今夜はゆっくり休みな」


「ありがとうございます」


「明日は明るくなってから出ればいい」


「はい」


 清吉は頭を下げた。


     *


 清吉が部屋へ戻ったあと。


 帳場には、喜助とおきぬだけが残った。


「……いい子だね」


 おきぬが言った。


「ああ」


「働いたこともあるし」


「うん」


「返事もきちんとしてる」


「そうだな」


 喜助は、先ほど宿帳に書いた名前を見た。


 ――清吉。


「ねえ、喜助さん」


「なんだい」


「聞いてみたら?」


「何を?」


「うちで働かないかって」


 喜助はおきぬを見た。


「一晩泊まっただけだぞ」


「でも、あの子は次の奉公先を探してるんだろう?」


「ああ」


「だったら、聞くだけ聞いてみてもいいじゃないか」


 喜助はしばらく考えた。


「……まあ、そうだな」


「でしょう?」


 おきぬは満足そうに笑った。


 けれど、それ以上は言わなかった。


 今夜は客だ。


 明日の朝、本人に聞けばいい。


     *


 翌朝。


 清吉は早く起きた。


 荷物をまとめ、身支度を整える。


 朝餉を済ませると、宿代を払った。


「お世話になりました」


「ああ」


 喜助が頷く。


「気をつけて帰りな」


「はい」


 おきぬも戸口まで出てきた。


「清吉さん」


「はい」


「次の奉公先、いいところが見つかるといいねえ」


「ありがとうございます」


 清吉は頭を下げた。


 それから、少しだけ咲のほうを見た。


 咲はおきぬの腕の中で、眠そうな顔をしている。


「咲ちゃんも、元気で」


 清吉が言う。


 咲は答えない。


 ただ、小さな手を動かした。


「じゃあね」


 清吉は笑った。


 そして、旅籠を出ていった。


 秋の朝だった。


 冷たい風が、通りを抜けていく。


 清吉の背中が、少しずつ遠ざかっていく。


 喜助は戸口に立ったまま、その姿を見ていた。


「……いい子だったね」


 おきぬが言う。


「ああ」


「聞けばよかったのに」


「何を?」


「うちで働く気はないかって」


 喜助は少し笑った。


「帰る途中の人間を、引き止めるわけにもいかんだろう」


「そうかねえ」


 おきぬは咲を見る。


「でも、縁があれば戻ってくるよ」


「そうだな」


 喜助も頷いた。


「旅籠ってのは、そういうところかもしれんな」


 戸を閉める。


 宿帳には、今朝の客の名が残っている。


 ――清吉。


 その一晩の記録が、後になってどんな意味を持つのか。


 まだ、誰も知らなかった。


     *


 清吉は歩いていた。


 実家までは、まだ少しある。


 背中の荷物は軽かった。


 奉公先を失ったとき、もっと何かを失ったような気がしていた。


 けれど。


 昨日泊まった旅籠を思い出すと、なぜか胸の奥が少し温かくなる。


 主人の喜助。


 女将のおきぬ。


 そして、小さな娘。


「……咲ちゃんか」


 清吉は一人で笑った。


 秋の風が吹く。


 清吉は歩き続けた。


 まだ知らない。


 あの旅籠へ、もう一度戻ることになるとは。


 そして今度は客としてではなく。


 その宿で働く者として、宿帳に自分の名を残すことになるとは。


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