第七話 一月
咲が生まれてから、一月が経とうとしていた。
おきぬは、まだ床を離れていない。
産婆に言われた通り、無理をせず、布団の上で過ごしている。
最初の頃は、喜助もそれでいいと思っていた。
おきぬはよく働く女だった。
朝が早く、客が起きる前から動いている。
旅人の食事を用意し、布団を整え、帰る客には忘れ物がないか声を掛ける。
客の顔を覚えるのも早い。
だから、しばらく休ませればいい。
そう思っていた。
ところが。
「喜助さん」
「なんだい」
「そこの味噌、取っておくれ」
「これか?」
「そう、それ」
「分かった」
喜助は味噌を持っていった。
「あと、薪が少ないよ」
「分かった」
薪を運ぶ。
「それから、昼の膳だけど――」
「おきぬ」
「なにさ」
「寝てろ」
「寝てるよ」
「口だけ働いてるじゃねえか」
おきぬは笑った。
「口まで休ませたら、あんた一人じゃ何にもできないだろ」
「……できる」
「昨日、米を炊くのに水を入れ忘れたのは誰だい?」
「……俺だ」
「一昨日、客の布団を裏表逆に敷いたのは?」
「俺だ」
「その前の日は?」
「もういい」
おきぬが声を立てて笑った。
その笑い声に、腕の中の咲がびくりと動く。
「あ」
おきぬがすぐに娘を見る。
けれど、咲は眠ったままだ。
「よかった」
おきぬは小さく息を吐いた。
喜助も娘を覗き込んだ。
生まれたばかりの頃より、ほんの少しだけ頬がふっくらした気がする。
「大きくなったな」
「そうかい?」
「ああ」
「毎日見てると分からないねえ」
おきぬは娘の頬を指先でそっと撫でた。
「でも、手は大きくなった気がするよ」
咲が小さな手を握る。
その指を見ていると、喜助は自然と笑っていた。
*
朝。
喜助は戸を開ける。
冷たい空気が流れ込んでくる。
旅籠の前を人が通る。
荷を背負った旅人。
商いに向かう男。
桶を抱えた女。
いつもの町の朝だ。
喜助は箒を手に取った。
掃く。
掃いていると、宿の中から声がする。
「喜助さん!」
「なんだい!」
「そこ、もうちょっと端まで掃いておくれ!」
「見えてるのか?」
「見えてなくても分かるんだよ!」
「……はいはい」
喜助は笑いながら箒を動かした。
おきぬは布団の中から、宿のことを考えている。
喜助は外で、宿のことを動かしている。
そんな日々が続いた。
昼になると、旅人が来る。
喜助は食事を運ぶ。
湯を沸かす。
布団を敷く。
帰る客を見送る。
夜になれば戸を閉める。
そして、咲の様子を見に行く。
最初は慣れなかった。
赤ん坊が泣けば、どうしていいのか分からない。
おしめを替えるのにも時間がかかる。
抱き方が悪いのか、泣き止まないこともある。
「おきぬ」
「なんだい」
「泣いてる」
「見れば分かるよ」
「どうしたらいい」
「抱いてあげな」
「抱いてる」
「じゃあ、もう少しゆっくり揺らしてみな」
言われた通りにする。
しばらくすると、咲が静かになる。
「……寝た」
「よかったねえ」
「俺でもできるな」
「何を威張ってるんだい」
おきぬが笑う。
そんなやり取りを、何度も繰り返した。
*
十日。
二十日。
二十五日。
日が過ぎていく。
咲は少しずつ声を出すようになった。
眠っているだけだった顔にも、表情が増えていく。
喜助が顔を覗き込むと、じっと見返すこともある。
「おい」
喜助が声を掛ける。
「俺が分かるのか?」
咲は答えない。
ただ、小さな口を動かした。
「……分からないか」
「まだ赤ん坊だからね」
おきぬが笑う。
「そのうち分かるようになるよ」
「何が?」
「父親だってことさ」
喜助は少し照れたように咳払いをした。
「そうか」
それだけ言って、また娘を覗き込む。
*
一月が近づいた頃。
喜助は帳場で帳面を開いていた。
宿の出入りを確かめる。
米の残り。
薪の量。
客から預かったもの。
支払い。
やることはいくらでもある。
おきぬがいないだけで、こんなにも仕事が増えるのかと思う。
いや。
今まで、おきぬが一人でやっていたのだ。
そう考えると、喜助は少しだけ申し訳なくなった。
その日の夕方。
喜助が夕餉を運んでいると、おきぬが言った。
「喜助さん」
「ん?」
「そろそろ、誰か手伝ってもらったほうがいいねえ」
喜助は足を止めた。
「……そう思うか」
「思うよ」
おきぬは咲を抱いたまま、喜助を見た。
「このままだと、あんたが倒れちまう」
「俺は大丈夫だ」
「大丈夫じゃないから言ってるんだよ」
「そうか」
「それにね」
おきぬは咲を見る。
眠っている娘の小さな顔。
「この子が大きくなったら、もっと手がかかるよ」
「……そうだな」
「だから、今のうちに誰かに来てもらおう」
喜助はしばらく黙っていた。
旅籠を始めたばかりの頃は、二人で十分だった。
二人で掃除をして。
二人で客を迎えて。
二人で見送った。
けれど今は、二人だけではない。
咲がいる。
そして、宿に来る旅人も少しずつ増えている。
「どんな人がいい?」
喜助が聞いた。
おきぬは少し考えた。
「人の好きな子がいいねえ」
「……それなら、俺たちと同じだな」
「そうだね」
おきぬが笑った。
「この宿には、人が好きな人が向いてるよ」
喜助も笑った。
「探してみるか」
「うん」
その夜。
咲はよく眠っていた。
喜助とおきぬは、明日から始めることを静かに話した。
誰に聞けばいいか。
どんな子が来てくれるだろうか。
まだ何も決まっていない。
ただ一つ。
この旅籠に、もう一人、人が加わろうとしていた。
旅人を迎えるために始めた宿は。
いつの間にか、人と人が出会い、暮らしを重ねる場所になっていた。




