第六話 咲
夜が明けた。
障子の向こうが、少しずつ白くなっている。
喜助は、帳場に座ったまま、ぼんやりと外を見ていた。
昨夜のことが、まだ夢のようだった。
おきぬの声。
産婆の落ち着いた声。
そして、夜の静けさを破った、あの小さな泣き声。
娘が生まれた。
そのことを思うたび、胸の奥が妙に熱くなる。
喜助は宿帳を開いた。
昨日までと同じ宿帳だ。
旅人の名前が並んでいる。
出身地。
行き先。
その人の顔。
おきぬが書いた短い言葉。
ページをめくる。
めくる。
けれど、今朝はなかなか目に入ってこなかった。
喜助は筆を持ったまま、物思いにふけっていた。
娘の名前。
昨夜、娘を抱いたときには、いくつか考えていた名前があった。
あれがいいか。
これもいいか。
おきぬは何と言うだろう。
そんなことを考えていたはずだった。
けれど。
腕の中に娘を抱いた瞬間、その名前が全部、頭から消えてしまった。
小さな身体。
細い指。
閉じたまぶた。
温かな重み。
ただ、それだけだった。
名前なんて、どうでもよくなるほどだった。
「……参ったな」
喜助は小さく呟いた。
その声に、自分で少し笑った。
その時、廊下から足音がした。
「喜助さん」
産婆だった。
身支度を整え、荷物をまとめている。
「もうお発ちになるんですか」
「ああ」
産婆は肩に荷を掛けた。
「隣村まで行かなきゃならないからね」
「昨夜は……本当にありがとうございました」
「礼なんていいよ」
産婆は笑った。
「宿に泊めてもらったんだ。こっちこそ世話になったよ」
「そんな……」
「それより」
産婆は、おきぬのいる部屋のほうを見た。
「おかみさんは?」
「眠っています」
「赤ん坊も?」
「はい」
「そうかい」
産婆は頷いた。
「なら、起こさないでおやり」
喜助が黙って頷く。
「昨夜はよく頑張ったからね。今日はゆっくり寝かせておやり」
「はい」
産婆は少しだけ笑った。
「おかみさんも、赤ん坊も」
「はい」
それから、土間へ降りた。
朝の空気は冷たかった。
喜助も後を追う。
「お気をつけて」
「ああ」
産婆は草履を履いた。
戸を開ける。
朝の通りには、まだ人影が少ない。
旅籠の前を、薄い朝靄がゆっくり流れていた。
「ではね」
「はい」
産婆は歩き出した。
何度か振り返ることもなく、朝の道を進んでいく。
やがて、その姿は角の向こうへ消えた。
喜助はしばらく、その先を見ていた。
昨夜、この人がいなければどうなっていただろう。
そう思う。
けれど、考えても仕方がない。
旅をする人と、旅籠で暮らす人。
本来なら、ほんの一晩すれ違うだけの間柄だった。
それでも。
この人のことは、きっと一生忘れない。
喜助は静かに戸を閉めた。
*
部屋へ戻る。
おきぬは眠っていた。
その隣で、娘も眠っている。
昨夜あれほど大きな声で泣いていたのが嘘のように、静かな顔をしていた。
喜助は、二人のそばへ座った。
しばらく何もせず、ただ見ていた。
おきぬの顔には、まだ疲れが残っている。
それでも、穏やかな寝顔だった。
その腕の中で、娘が小さく身じろぎする。
喜助は手を伸ばしかけて、やめた。
起こしてはいけない。
産婆の言葉を思い出した。
――おかみさんも、赤ん坊も。
ゆっくり寝かせておやり。
喜助は、少し離れたところに座った。
朝の光が障子を透かして、部屋の中へ細く差し込んでいる。
その光が、おきぬの頬に当たる。
娘の小さな手にも当たる。
喜助は目を細めた。
そして。
「……咲」
ふいに、その言葉が口から出た。
自分でも、なぜその名が浮かんだのか分からなかった。
ただ、娘を見ていたら、そう思った。
喜助は、もう一度口にした。
「咲……」
眠っている娘は、何も答えない。
喜助は少し考えた。
それから、おきぬのほうを見る。
「おきぬ」
「……ん」
おきぬが薄く目を開けた。
「起こしたか」
「ううん……」
まだ眠そうだった。
「どうしたの」
喜助は娘を見た。
「咲は、どうだろう」
「……さく?」
「ああ」
おきぬも娘を見る。
しばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「いいじゃないか」
「そうか」
「うん」
おきぬは目を細めた。
「咲」
その声は、まだ眠りの中にいるように柔らかかった。
「いい名前だねえ」
喜助も頷いた。
「ああ」
それ以上は言わなかった。
言葉にすることは、もうなかった。
おきぬはまた目を閉じた。
娘も眠っている。
喜助は二人をしばらく眺め、それから帳場へ戻った。
宿帳を開く。
昨日まで、そこに書かれていたのは旅人の名前だった。
今日、そこへ初めて家族の名前を書く。
喜助は筆を取った。
そして、一字。
ゆっくりと書いた。
――咲。
墨が紙に染みていく。
喜助は、その文字をしばらく眺めていた。
宿帳に、新しい名前がひとつ増えた。
旅人ではない。
この宿に生まれた、小さな娘の名前だった。
外では、朝の町が動き始めている。
どこかで戸を開ける音がした。
遠くから、荷車の音も聞こえる。
今日もまた、旅人が来る。
誰かが泊まり、誰かが旅立っていく。
その間、この宿には。
ひとりの娘が眠っている。
咲。
その名前を、喜助はもう一度、心の中で呼んだ。




