第五話 新しい声
その夜は、風のない夜だった。
日が暮れてしばらくすると、旅籠の表を閉めた。
最後の客が部屋へ引き上げると、廊下から聞こえるのは、柱時計の音と、ときおりどこかの部屋で寝返りを打つ気配だけだった。
喜助は土間に残った履物を揃え、火の具合を確かめた。
いつもの夜だった。
――そのはずだった。
「……喜助さん」
背後から、おきぬの声がした。
振り向くと、おきぬが柱に手をついて立っている。
「どうした」
「ちょっと……」
おきぬが眉を寄せた。
「お腹がね」
「痛いのか?」
「うん」
喜助はすぐに駆け寄った。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃ……ないかもしれない」
おきぬは苦しそうに息を吐いた。
喜助は言葉を失った。
もうすぐだとは分かっていた。
日々の暮らしの中で、おきぬの腹は少しずつ大きくなっていた。
あと少しだと、二人で話していた。
それでも。
いざ、その時が来ると、何をすればいいのか分からない。
「……どうしたらいい」
「何をあんたが慌ててるんだい」
おきぬは苦しそうな顔のまま、少し笑った。
「とりあえず、お湯でも沸かしておくれ」
「ああ」
喜助は立ち上がった。
だが、二歩ほど進んだところで振り返る。
「ほかには?」
「ほか?」
「何かいるものは」
「知らないよ」
「……そうか」
「だから、お湯を沸かしておくれ」
「ああ」
今度こそ喜助は走った。
湯を沸かし、布を用意する。
何かほかにできることはないかと考えるが、何も思いつかない。
おきぬのところへ戻る。
すると、また痛みが来たらしい。
「……喜助さん」
「ここにいる」
「うん」
それだけで、おきぬは少し安心したようだった。
その時だった。
廊下の向こうで、襖の開く音がした。
「どうしたんだい?」
声の主は、今夜泊まっている女だった。
六十を少し越えたくらいだろうか。
荷物は少なく、明日の朝にはこの宿を発つと言っていた。
明日は隣村まで行くつもりだが、日が暮れてしまったから泊めてもらったのだと、夕食の折に話していた。
女は二人の様子を見るなり、足を止めた。
「おや」
そして、おきぬの顔を見た。
「いつからだい?」
「さっきからです」
喜助が答えた。
「間は?」
「……間?」
「痛みと痛みの間さ」
喜助は黙った。
おきぬが、苦しそうに笑う。
「喜助さんは、何にも分かってないんですよ」
「そうかい」
女は頷いた。
「初めてかい」
「はい」
「そうか」
女はおきぬの腹へ目をやり、それから喜助を見た。
「私は産婆だよ」
喜助は目を見開いた。
「産婆……」
「明日、隣村で頼まれていてね。今夜のうちに行くつもりだったんだけど、暗くなっちまったから、この宿に泊めてもらったのさ」
女は、何でもないことのように言った。
「旅をしてりゃ、こういうこともある」
おきぬが息を整えながら笑う。
「ほんとにねえ」
「さあ、そんなこと言ってる場合じゃないよ」
産婆は袖をたくし上げた。
「喜助さん」
「はい」
「おかみさんを布団へ連れていっておやり。私は支度をするから」
「はい」
「それから、湯をもう少し沸かしておくれ」
「分かりました」
「清潔な布も何枚か」
「はい」
今度は、何をすればいいのか分かった。
喜助はおきぬの肩を支えた。
「歩けるか」
「歩けるよ」
「無理するな」
「誰のせいで無理してると思ってるんだい」
「……俺か」
「そうだよ」
こんな時でも、おきぬは笑った。
喜助も、ほんの少しだけ笑った。
けれど、その手は離さなかった。
*
夜は長かった。
旅籠には、いくつもの部屋がある。
これまで、その部屋にあったのは旅人の寝息だった。
伊勢へ向かう人。
江戸へ向かう人。
故郷へ帰る人。
誰かを訪ねる人。
誰もが一晩眠り、朝になれば出ていった。
けれど今夜だけは違った。
この部屋の中で、ひとつの命が生まれようとしている。
喜助は、襖の外で待っていた。
何度も立ち上がっては、また座る。
湯を替える。
布を運ぶ。
産婆に言われたものを持っていく。
それでも、できることは少ない。
やがて、おきぬの声が聞こえた。
「……喜助さん」
「ここにいる」
「うん」
そのやり取りを、何度繰り返しただろう。
夜が深くなる。
外は静かだった。
遠くで犬が一度だけ鳴いた。
風はない。
旅籠の中には、かすかな灯りと、おきぬの息遣いだけがあった。
そして――
ふっと、静かになった。
喜助は息を止めた。
産婆の声がする。
「もう少しだよ」
おきぬが息を吐く。
喜助は膝の上で手を固く握った。
やがて。
小さな声がした。
最初は、ほんの小さな声だった。
それが次第に大きくなっていく。
高く、細く、それでも驚くほど力強い。
泣き声だった。
喜助は、思わず立ち上がった。
襖が開いた。
「生まれたよ」
産婆が笑っていた。
「女の子だ」
「……女の子」
喜助は、それだけを繰り返した。
産婆の腕の中で、小さな手が動いている。
握ったり、開いたりしている。
「抱いてみるかい」
「俺が?」
「父親だろう」
「……はい」
喜助は恐る恐る腕を差し出した。
産婆から渡された身体は、あまりにも軽かった。
けれど、温かかった。
小さい。
驚くほど小さい。
それなのに、確かに生きている。
喜助は娘の顔を見つめた。
「……小さいな」
布団の中から、おきぬの声がした。
「当たり前でしょう」
少し疲れている。
けれど、笑っていた。
「赤ん坊なんだから」
喜助も、ようやく笑った。
「ああ」
腕の中で、娘がまた小さく泣いた。
喜助は慌てて抱き直した。
「どうした」
「まだ何も分からないさ」
産婆が笑った。
「泣くのが仕事みたいなもんだよ」
喜助は娘の顔を見た。
目はまだ閉じている。
細い指が動き、喜助の着物に触れた。
その指を見ているうちに、不思議な気持ちになった。
この旅籠を始めてから、たくさんの人を見送ってきた。
朝になれば旅人は出ていく。
喜助は、その顔を忘れないように描いた。
おきぬは、その人がどこから来て、どこへ向かうのかを書き残した。
けれど。
この子は違う。
明日の朝になっても、ここにいる。
この先も、ここにいる。
この旅籠で泣き、笑い、歩き、いつか大きくなっていく。
喜助は娘を見つめた。
そして、ふと廊下の先へ目を向けた。
静かな旅籠だった。
けれど今は、そこにひとつ、新しい音がある。
赤ん坊の泣き声。
旅人の足音ではない。
帰っていく人の草履の音でもない。
この家に生まれた子の声だった。
*
夜が明ける前。
喜助は帳場に座っていた。
目の前には、いつもの宿帳がある。
これまで、旅人の名を書いてきた。
似顔絵を描き、短い言葉を添えてきた。
今日も筆を取る。
けれど、しばらく何も書けなかった。
おきぬのいる部屋から、かすかな寝息が聞こえる。
その隣には、生まれたばかりの娘がいる。
喜助は、ゆっくりと筆を下ろした。
そして、宿帳の余白に小さく書いた。
――この宿に、娘が生まれた。
それだけだった。
まだ名前は決まっていない。
けれど、その一行を見つめていると、喜助の胸の奥が温かくなった。
旅人を迎えるために始めた旅籠に。
今夜、家族がひとり増えた。
外は、少しずつ白み始めていた。
朝が来る。
今日もきっと、誰かがこの宿の戸を叩く。
けれど、その前に。
旅籠の中には、新しい声がある。
小さな、小さな娘の声が。




