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宿帳  作者: 灯野 しおん
第一章 喜助とおきぬ

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第四話 生まれる日を待つ

 秋の風が、街道沿いの木々を揺らしていた。


 旅籠の庭では、干した布団が風を受けてふくらんでいる。


 おきぬは布団の端を持ち上げようとして、ふと手を止めた。


「喜助さん」


「ん?」


「そっち、持ってくれる?」


 戸口にいた喜助が振り向く。


「ああ」


 二人で布団を取り込んだ。


 おきぬは縁側に腰を下ろした。


「ふう……」


「大丈夫か」


「大丈夫だよ」


「座ってろ」


「これくらい平気だって」


 そう言いながらも、おきぬは膝に手を置いた。


 その手の下で、丸く膨らんだお腹がゆっくり上下している。


 喜助は、しばらくそれを見ていた。


「……大きくなったな」


「誰のおかげだと思ってるの」


「俺じゃない」


「そういうことじゃないよ」


 おきぬが笑った。


 喜助も、少しだけ口元を緩める。


 旅籠を始めて一年と少し。


 いつの間にか、二人の暮らしには少しずつ物が増えていた。


 客用の布団。


 茶碗や椀。


 雨の日に使う傘。


 そして、帳場の隅に置かれた宿帳。


 そこには、旅人の名前が少しずつ増えている。


 最初の一人だった清吉の名前。


 伊勢へ向かった夫婦の名前。


 商いの途中で立ち寄った男。


 娘を訪ねるために旅をしていた女。


 それぞれの名前の横には、喜助が描いた顔があり、おきぬの短い言葉が残っている。


 白かった頁は、少しずつ埋まってきた。


 宿もまた、少しずつ客を迎える場所になっていた。


「名前、考えた?」


 おきぬが聞いた。


「まだだ」


「私はいくつか考えてるよ」


「そうか」


「聞きたい?」


「生まれてからでいい」


「まあ、つれないねえ」


 おきぬが笑った。


「男の子だったらね……」


 そのときだった。


 街道の向こうから、人影が二つ見えた。


 喜助が立ち上がる。


「客だ」


 おきぬも立とうとした。


「俺が出る」


「私も行くよ」


「いい」


「なんで?」


「お前は座ってろ」


「はいはい」


 おきぬは苦笑しながら、また縁側に腰を下ろした。


 喜助が戸口へ出る。


 近づいてきたのは、若い夫婦だった。


 男は荷を背負い、女は大きなお腹を両手で支えるようにして歩いている。


「いらっしゃい」


 喜助が声をかけた。


「泊めてもらえますか」


「ああ」


 男が頭を下げる。


「ありがとうございます」


 女は少し息を整えていた。


「大丈夫かい?」


 おきぬが声をかけた。


「はい」


 女が笑う。


「実家へ戻る途中なんです」


「そうかい」


 おきぬは自分のお腹に手を添えた。


「私もね、もうすぐなんだ」


 女の目が、おきぬのお腹へ向いた。


「まあ……」


「同じくらいかな」


「そうですね」


 二人は顔を見合わせた。


 どちらからともなく笑った。


「初めて?」


 おきぬが尋ねる。


「はい」


「私も」


「そうなんですか」


「だから、何にも分からないよ」


 おきぬは笑った。


「私も昨日まで、もっと先のことだと思ってたんだけどねえ」


 女はお腹を撫でた。


「私も、怖いんです」


「そうかい」


「無事に生まれてくれるのかって」


「……うん」


 おきぬは頷いた。


「私も、時々そう思うよ」


 その言葉に、女の表情が少し和らいだ。


「自分だけじゃないんですね」


「当たり前だよ」


 おきぬは笑った。


「みんな初めてなんだから」


 少し離れたところで、喜助と男がその様子を見ていた。


 男が小さく笑う。


「女同士だと、すぐ話が通じるんですね」


「そうらしい」


 喜助は頷いた。


     *


 夕餉の膳には、炊きたての飯と味噌汁、それに根菜の煮物が並んだ。


「無理して食べなくていいからね」


 おきぬが言う。


「ありがとうございます」


 女は箸を取り、ゆっくりと飯を口へ運んだ。


「おいしい」


「そうかい?」


「はい」


 おきぬの顔がほころぶ。


「それなら、もう少し食べな」


「いただきます」


 おきぬが煮物を取り分ける。


「故郷は、どちらなの?」


「美濃のほうです」


「じゃあ、もう少しだね」


「はい。明日、明後日には着くと思います」


「ご実家では待ってるだろうねえ」


「母が、とても楽しみにしています」


 女が微笑んだ。


「初孫なんです」


「そりゃあ、楽しみだ」


 おきぬも嬉しそうに頷いた。


「帰ったら、大騒ぎだね」


「はい」


 女はお腹を撫でた。


「この子も、喜んでくれると思います」


「まだ生まれてないのに?」


 おきぬが笑う。


「ふふ」


 女も笑った。


 その様子を見ながら、喜助は黙って箸を動かしていた。


 やがて男が言った。


「ここは、できたばかりのお宿なんですか?」


「そうですよ」


 おきぬが答えた。


「まだ一年ちょっとだけどね」


「いい宿ですね」


 おきぬの手が止まった。


「……そうかい?」


「ええ」


 男は頷いた。


「落ち着きます」


「ありがとう」


 おきぬは照れたように笑った。


 喜助は何も言わなかった。


 ただ、味噌汁の椀を置く手が、ほんの少しゆっくりになった。


     *


 夜。


 旅の夫婦が眠りについたあと、男は一人で縁側に出ていた。


 月が出ている。


 庭の木々が、風に揺れていた。


 喜助も外へ出てきた。


「眠れないのか」


「少し」


「そうか」


 二人は並んで座った。


 遠くで虫が鳴いている。


 街道を、誰かが歩いていく音がした。


 しばらく、どちらも口を開かなかった。


 やがて男が言った。


「……怖いんです」


 喜助は黙って聞いていた。


「子どもが、無事に生まれるのか」


「うん」


「妻も、大丈夫なのか」


「ああ」


「考え始めると、きりがなくて」


 喜助は月を見上げた。


「俺もだ」


 男が顔を向ける。


「え?」


「俺のところも、もうすぐだ」


「ああ……」


 男は少し笑った。


「そうだったんですね」


「まだ、何も分からん」


 喜助は自分の手を見た。


 時計の部品なら、壊れたものでも直せる。


 木の戸が歪めば削ればいい。


 草鞋の紐が切れれば結び直せる。


 けれど、生まれてくる子どものことは、何をすればいいのか分からない。


「俺も、何をしたらいいのか分からん」


 男は頷いた。


「私もです」


「だから」


 喜助は少し考えた。


「無事に生まれるよう、願うしかないな」


「……はい」


 二人は月を見上げた。


 雲の切れ間から、白い月が静かに光っている。


「無事に生まれますように」


 男が呟いた。


「無事に生まれますように」


 喜助も言った。


 それだけだった。


 けれど、その言葉を口にすると、胸の奥にあった重いものが、ほんの少しだけ軽くなった。


     *


 翌朝。


 女はゆっくりと起き上がった。


「よく眠れました」


「それはよかった」


 おきぬが笑う。


「今日も歩かなきゃいけないからね」


「はい」


 男は荷物を背負い、女の荷を持った。


 おきぬは戸口まで見送りに出た。


「気をつけて帰るんだよ」


「ありがとうございます」


「元気な子を産んでね」


「おきぬさんも」


「え?」


 女が笑った。


「おきぬさんも、もうすぐでしょう?」


「ああ……」


 おきぬは照れたように笑った。


「そうだね」


「お互い、無事に産みましょうね」


「うん」


 二人は顔を見合わせた。


 それから、女がそっとおきぬの手を握った。


「お元気で」


「あなたもね」


 夫婦は街道へ出ていった。


 おきぬと喜助は、二人の背中を見送った。


 やがて姿が小さくなる。


 秋の風が、二人の間を抜けていった。


「俺たちも、もうすぐだな」


 喜助が言った。


「うん」


 おきぬは自分のお腹に手を置いた。


「この子も、いつか旅をするのかねえ」


「するだろうな」


「どこへ行くんだろう」


「さあな」


「江戸かな」


「もっと遠くかもしれん」


 おきぬが笑った。


「そのときは、うちに泊まってくれるといいね」


 喜助が横を見る。


「自分の家だろ」


「あ」


 おきぬが声を上げて笑った。


「そうだった」


 喜助も笑った。


     *


 昼過ぎ。


 喜助は帳場に座り、宿帳を開いた。


 旅人夫婦の名前を書く。


 筆を置き、二人の顔を描く。


 男は少し緊張した顔。


 女は穏やかな笑みを浮かべている。


 おきぬが横から覗き込んだ。


「上手くなったね」


「そうか」


「最初の清吉より、ずっといいよ」


「清吉も上手く描いた」


「はいはい」


 おきぬは笑って、筆を取った。


 そして二人の名前の横に、一言を書く。


 ――子を授かり、故郷へ戻る二人。無事に生まれますように。


 書き終えて、しばらく眺めた。


「無事に生まれるといいね」


「ああ」


 喜助も頷いた。


 おきぬは、そっと自分のお腹に手を置いた。


「……私たちもだね」


「うん」


 喜助は短く答えた。


 まだ見ぬ子どものことを考えると、嬉しいのか、不安なのか、自分でもよく分からない。


 ただ一つだけ分かっている。


 この旅籠に、もうすぐ新しい声が響く。


 そう思うと、いつもの柱も、畳も、囲炉裏も、昨日までとは少し違って見えた。


「喜助さん」


「ん?」


「名前、ちゃんと考えようね」


「ああ」


「男の子かな」


「女の子かもしれん」


「どっちでもいいね」


「そうだな」


 二人は顔を見合わせた。


 おきぬが笑う。


 喜助も、少しだけ笑った。


 宿帳には、今日も新しい名前が一つ増えた。


 街道の先では、今頃あの夫婦が歩いているだろう。


 やがて故郷に着き、家族に迎えられる。


 そして、その腕に小さな命を抱く日が来る。


 この旅籠にも、いつか。


 新しい声が響く。


 秋の風が、庭の木の葉を揺らした。


 喜助は宿帳を閉じた。


 おきぬは、その隣に座っていた。


 二人は何も言わず、しばらく風の音を聞いていた。


 生まれる日を待ちながら。


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