第三話 旅立ちのおいなりさん
朝の光が、障子の隙間から細く差し込んでいた。
おきぬは竈の前にしゃがみ、薪を一本くべた。
ぱち、と小さく火の粉が跳ねる。
釜の蓋の隙間から、白い湯気が立ちのぼっていた。
炊きたての米の匂いが、まだ静かな旅籠の中に広がっていく。
「今日は、少し多めだね」
背後から喜助の声がした。
「昨日、二人泊まったでしょう」
「二人分なら、いつもと変わらん」
「朝ご飯だけじゃないよ」
おきぬは振り返った。
「昼過ぎにも、誰か来るかもしれないじゃない」
「分かるのか?」
「なんとなく」
「なんとなくか」
「宿屋ってのは、そういうもんだよ」
おきぬは笑った。
「街道を見てれば分かるの」
喜助は戸を開けた。
朝の街道には、まだ薄い霧が残っていた。
鳥の声。
遠くで鳴く馬。
どこかの家から聞こえる、箒の音。
去年、この旅籠を始めた頃は、朝になっても街道を眺めることなどなかった。
客が来るのか。
来ないのか。
ただ待っていた。
今は違う。
街道を歩く人の姿を見れば、何となく足取りが分かる。
荷物の大きさを見れば、泊まりそうかどうかも少しは分かるようになった。
旅籠の仕事が、少しずつ二人の身体に馴染んできていた。
それでも、客の来る日は嬉しい。
「ほら」
おきぬが言った。
「あれ、旅人だよ」
街道の向こうから、男女が歩いてくる。
二人とも旅装束だった。
男は少し大きな荷を背負い、女は杖をついている。
歩くたび、女の足元がわずかに揺れた。
「いらっしゃい」
おきぬが外へ出た。
「お疲れでしょう。どうぞ」
「泊めてもらえますか」
「もちろん」
夫婦は顔を見合わせた。
「ありがとうございます」
「どちらから?」
「桑名からです」
「伊勢参り?」
「ええ」
おきぬの顔が明るくなった。
「まあ、それはいいねえ」
女が笑った。
「一度はお参りしたいと思っていたんです」
「足、大丈夫かい?」
「少し痛みますけど……」
「じゃあ、今日はゆっくりしていきな」
おきぬは女の荷物に手を伸ばした。
「これは私が」
「でも……」
「旅籠に着いたんだから、ここからは客だよ」
女は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「では、お言葉に甘えて」
喜助は黙って荷を受け取った。
思ったより重かった。
「ずいぶん詰めたな」
男が笑う。
「女房は旅に出ると、何でも持っていきたがるんですよ」
「必要になるかもしれませんから」
「だから重いんだ」
「あなたが持つんですからいいでしょう」
おきぬが吹き出した。
「仲がいいねえ」
「そうでもありません」
「そうでもないですね」
二人の声が重なった。
おきぬは声を上げて笑った。
「そっくりだよ、あんたたち」
*
その日の夕餉は、いつもより少し賑やかだった。
夫婦は伊勢でどこを回るかを話し、おきぬは近くの道のことを教えた。
「この先を曲がると、少し坂があるからね」
「坂ですか」
「帰りは疲れてるだろうから、気をつけな」
「ありがとうございます」
女は味噌汁をすすった。
「おいしい」
「そうかい?」
「はい」
「それなら、もう一杯どう?」
「いただきます」
おきぬが嬉しそうに椀を受け取った。
喜助は向かいで黙って魚を食べている。
「ここは、できたばかりのお宿なんですか?」
男が尋ねた。
「そうなんですよ」
おきぬが答えた。
「まだまだ、これからでね」
「でも、いい宿ですね」
その言葉に、おきぬが少しだけ黙った。
「……そうかい」
「ええ」
「ありがとう」
喜助は顔を上げなかった。
けれど、箸を持つ手がほんの少し止まった。
*
伊勢へ向かう夫婦が旅籠を出たのは、翌朝だった。
「行ってらっしゃい」
「ありがとうございます」
「帰りも、ここを通るんでしょう?」
「そのつもりです」
「じゃあ、帰りも寄っておくれ」
「はい」
女は杖をつきながら、街道へ出ていった。
二人の姿が見えなくなるまで、おきぬは戸口に立っていた。
「戻ってくるかな」
「分からん」
「来ると思う?」
「分からん」
「つまらないねえ」
おきぬが笑った。
「そういうところ」
喜助は街道を見たままだった。
「でも、来たくなったら来るだろう」
「そうだね」
おきぬは頷いた。
*
三日後。
昼を過ぎた頃だった。
街道の向こうから、見覚えのある二人が歩いてきた。
「ほら!」
おきぬが声を上げた。
「帰ってきた!」
喜助も戸口に出た。
伊勢参りの夫婦だった。
「お帰りなさい!」
おきぬが言った。
「ただいま」
女が笑った。
「無事にお参りできました」
「それはよかった!」
「それにね」
女は杖を持ち上げた。
「足の痛みが、少し楽になったんです」
「まあ!」
「伊勢でお参りしてから、不思議なくらい」
「そりゃあ、よかったねえ」
おきぬは、自分のことのように喜んだ。
「ご利益があったんだね」
「そうかもしれません」
女は笑った。
「でも、ここまで来られたのも、この宿で休ませてもらったからです」
「そんなの……」
おきぬは照れたように頭を掻いた。
「飯を食べて寝ただけだよ」
「それがありがたかったんです」
その言葉を聞いて、喜助がふと街道を見た。
旅人は、ここで一晩休んで、また先へ進む。
歩く途中で腹が減ることもある。
喉が渇くこともある。
足が痛むこともある。
ならば。
喜助は少し考えた。
「おきぬ」
「なに?」
「帰りに、何か持たせたらどうだ」
「何を?」
「……いなりを」
「いなり?」
「ああ」
おきぬは目を丸くした。
それから、にやりと笑った。
「へえ」
「なんだ」
「あんたにしちゃ、いいこと思いついたねえ」
「そうか?」
「そうだよ」
おきぬは夫婦を見た。
「道中で食べられるように、いなりを作ってあげようか」
「そんな、悪いですよ」
男が慌てた。
「悪くないよ」
おきぬは立ち上がった。
「旅籠の女将が、旅人に飯を持たせちゃいけないなんて決まりはないでしょう」
「でも……」
「いいから待ってな」
おきぬは台所へ向かった。
喜助も後からついていく。
「油揚げはある」
「あるよ」
「飯も炊いた」
「じゃあ作れるね」
「俺がやる」
おきぬが振り返った。
「何を?」
「詰める」
「へえ」
「なんだ」
「別に」
おきぬは笑った。
「旅籠を始めてから、ずいぶん人のことを考えるようになったねえ」
喜助は少し考えた。
「前から考えてる」
「あら、そうだっけ?」
「そうだ」
「じゃあ、私が気づかなかっただけか」
「そうだ」
「なんだい、それ」
二人の笑い声が、台所に響いた。
甘辛く煮た油揚げを開く。
炊きたての飯に、少し酢を混ぜる。
喜助が手のひらで形を整え、油揚げの中へ詰めていく。
台所いっぱいに、甘い醤油の匂いが広がった。
「いい匂いだねえ」
「うん」
「いくつ作る?」
「二つでいい」
「二つじゃ足りないよ」
「そうか?」
「道中は長いんだから」
おきぬはもう二つ、油揚げを並べた。
「四つにしよう」
「……そうだな」
竹の皮を広げ、その上にいなりを四つ並べる。
おきぬが丁寧に包んだ。
*
「これ、道中で食べな」
おきぬが夫婦に竹の皮包みを渡した。
「ありがとうございます」
「腹が減ったら食べるんだよ」
「こんなに……」
「四つしかないよ」
「十分です」
女が包みを両手で受け取った。
「本当にありがとうございます」
「お礼はいいって」
おきぬは笑った。
「伊勢の話でもしながら食べな」
夫婦は何度も頭を下げた。
そして、街道へ出ていった。
女の足取りは、来たときより少し軽かった。
「いい人たちだったね」
おきぬが言った。
「ああ」
「また来てくれるかな」
「分からん」
「またそれかい」
おきぬが笑う。
喜助は、遠ざかっていく二人を見ていた。
「でも」
「うん?」
「来たくなったら、来るだろう」
おきぬは少し黙った。
それから、笑った。
「そうだね」
*
その夜。
喜助は宿帳を開いた。
夫婦の名前を書く。
その横に、二人の顔を描く。
おきぬが覗き込んだ。
「今度は笑ってるね」
「ああ」
「帰ってきたからかな」
「そうかもしれん」
喜助は筆を置いた。
おきぬは、その横に一言を書いた。
――伊勢参りから無事帰る。足の痛みも少し楽になった。旅立ちに、いなりを持っていく。
書き終えて、宿帳を眺める。
最初の頁には清吉。
その下にも、少しずつ名前が増えている。
まだ、宿帳は薄い。
けれど、白い頁は少しずつ減っていた。
「増えたねえ」
おきぬが言った。
「まだ少ない」
「でも、最初は一人だったよ」
喜助は何も言わなかった。
宿帳を閉じる。
外では、夜の風が暖簾を揺らしていた。
街道はもう暗い。
そのどこかを、今日この宿を出た二人が歩いている。
竹の皮に包まれた、四つのいなりを携えて。
いつかまた、この戸を開けてくれるかもしれない。
そう思うだけで、おきぬは少し嬉しかった。
喜助は火を落とした。
おきぬが戸締まりをする。
小さな旅籠の夜が、静かに更けていった。




