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宿帳  作者: 灯野 しおん
第一章 喜助とおきぬ

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第二話 はじめのお客様

 男は、土間に立ったまま、しばらく動かなかった。


 旅籠の中を見回している。


 まだ新しい畳。


 磨かれた柱。


 土間の隅に積まれた薪。


 どこもきれいに掃除されているが、宿の中には、まだ旅人の気配がなかった。


 当然だった。


 この宿は、今日から始まったばかりなのだから。


「どうぞ、上がってくださいな」


 おきぬが声をかけた。


「荷物、そこへ置いていいですよ」


「ああ……」


 男は背負っていた荷を下ろした。


 どさり、と重い音がする。


 思ったより大きな荷物だった。


「ずいぶん重そうだねえ」


「そうですか」


「そうですよ。何が入ってるの?」


「着物と、少しばかりの身の回りのものです」


「それだけ?」


「それだけです」


 おきぬは荷物を見て、それから男を見た。


「じゃあ、あんたが細いんだ」


 男は、ぽかんとした。


 喜助が横から言った。


「飯を食わせればいい」


「そうだね」


 おきぬが笑う。


「お腹、空いてるでしょう?」


「……はい」


 男は少し恥ずかしそうに答えた。


「朝から何も食べていません」


「まあ!」


 おきぬが目を丸くする。


「それじゃあ、荷物よりあんたのほうが軽くなっちまうよ」


「そんなことには……」


「なるよ」


 おきぬは即座に言った。


「喜助さん」


「ああ」


「ご飯」


「分かった」


 喜助が台所へ向かった。


 男はその背中を目で追った。


「……よろしいんですか」


「何が?」


「まだ、朝でしょう」


「朝だからご飯を食べるんでしょう?」


 おきぬは不思議そうに言った。


 男は、また少し黙った。


 それから、小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼なんかいいよ」


 おきぬは笑った。


「その代わり、いっぱい食べておくれ」


 男が初めて笑った。


 ほんの少しだけだった。


 けれど、おきぬは見逃さなかった。


「そうそう。その顔」


「え?」


「笑ったほうがいいよ」


 男は照れたように俯いた。


「……すみません」


「謝ることじゃないでしょう」


 奥から、飯の炊ける匂いがしてきた。


 湯気に混じって、米の甘い匂いがする。


 男は、思わず腹を押さえた。


 ぐう、と音が鳴った。


 おきぬが目を丸くする。


「ほら」


「……すみません」


「だから、謝らなくていいって」


 おきぬは声を上げて笑った。


     *


 男の名は、清吉といった。


 歳は二十を少し過ぎたばかり。


 伊勢から来たという。


 明日は東海道をさらに東へ進み、江戸へ向かう。


「江戸へ、何をしに?」


 夕餉の膳を前にして、おきぬが尋ねた。


 清吉は箸を置いた。


「奉公です」


「へえ」


「呉服を扱う店だそうです」


「そうです、って?」


「まだ、行ったことがないので」


「ああ、なるほどねえ」


 おきぬは頷いた。


「じゃあ、江戸へ行くのも初めて?」


「はい」


「楽しみじゃない」


 清吉は少し考えた。


「……楽しみというより」


「というより?」


「怖いです」


 おきぬの手が止まった。


 喜助は向かいで黙って飯を食べている。


「そうかい」


 おきぬはそれ以上、すぐには聞かなかった。


 清吉は味噌汁を一口すすった。


「母が、決めました」


「お母さんが?」


「はい」


「いいところなの?」


「分かりません」


「会ったこともない?」


「ありません」


「そりゃあ、不安だねえ」


 清吉は頷いた。


「でも、行くと決めました」


「そう」


 おきぬはそれだけ言って、清吉の膳に煮物を一つ足した。


「食べな」


「……はい」


「江戸は遠いからね」


 清吉は煮物を口に入れた。


 少し甘い。


 里の家で食べていた味に似ていた。


「うまいです」


「そうかい」


 おきぬは嬉しそうに笑った。


「それなら、もう一つ食べな」


「そんなにいただいても……」


「若いんだから食べなさい」


 喜助が、ぼそりと言った。


「食えるときに食っとけ」


 清吉は二人を見た。


 それから、また箸を動かした。


     *


 夕方になると、風が冷たくなった。


 清吉は縁側に座り、街道を眺めていた。


 西の空が赤く染まっている。


 街道を行く人の姿も、昼間より少なくなっていた。


 遠くで馬の鳴く声がする。


 どこかの家から、夕餉を知らせるような煙が上がっている。


「寒くないかい?」


 おきぬが後ろから声をかけた。


「大丈夫です」


「明日の朝は早いんだろ?」


「はい」


「なら、早く寝なさい」


「まだ眠くありません」


「そう言う人ほど、布団に入ったらすぐ寝るんだよ」


 清吉は笑った。


「おきぬさんは、よく喋りますね」


「そう?」


「はい」


「嫌かい?」


「いえ」


 清吉は街道の向こうを見た。


「……家にいるみたいです」


 おきぬは何も言わなかった。


 しばらくして、隣に腰を下ろした。


「お母さん、心配してるだろうね」


「はい」


「帰ってくるんだよ」


 清吉が振り返った。


「江戸から?」


「そう」


「奉公が終わったら?」


「終わらなくても、帰ってきたくなったら帰ってくればいい」


「でも……」


「いいんだよ」


 おきぬは街道を見た。


「旅に出るってのは、行くだけじゃないからね」


「……」


「帰るところがあるから、行けるんだ」


 清吉は、しばらく何も言わなかった。


 やがて、小さく頷いた。


「はい」


 風が吹いた。


 おきぬの髪が揺れた。


 遠くで、戸を閉める音がした。


 夜が、少しずつ町を包んでいく。


     *


 翌朝。


 清吉はまだ暗いうちに目を覚ました。


 見慣れない天井だった。


 一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。


 けれど、昨日のことを思い出す。


 江戸へ向かう途中。


 関宿。


 新しく始まったばかりの旅籠。


 清吉は布団を畳み、荷物をまとめた。


 土間へ下りると、喜助がすでに起きていた。


「おはようございます」


「ああ」


「早いですね」


「いつもこのくらいだ」


 喜助は清吉の草鞋を見た。


「それ、見せろ」


「え?」


「紐が切れかけてる」


 清吉が足元を見る。


 確かに、片方の紐が擦り切れていた。


「大丈夫です」


「江戸まで持たん」


 喜助はしゃがみ込み、新しい紐を取り出した。


「これを使え」


「でも……」


「いい」


 喜助は手際よく紐を結び直した。


 清吉は、その手元を見ていた。


 大きな手だった。


 けれど、指先の動きは驚くほど細やかだった。


「ありがとうございます」


「うん」


 そこへ、おきぬが飯を運んできた。


「ほら、朝ご飯」


「いただきます」


「しっかり食べなよ」


「はい」


 清吉は膳に向かった。


 食べ終えると、二人に深く頭を下げた。


「昨日は、ありがとうございました」


「何言ってんだい」


 おきぬが笑った。


「泊まって、飯を食べただけでしょう」


「それがありがたかったんです」


 おきぬは少し黙った。


 それから、


「江戸へ行ってらっしゃい」


と言った。


「はい」


「いい奉公先だといいね」


「はい」


「帰りに、また寄りな」


 清吉は笑った。


「……はい」


 戸が開いた。


 朝の街道に、冷たい風が流れている。


 清吉は荷物を背負い、何度か振り返った。


 喜助とおきぬが、旅籠の前に立っている。


 清吉は深く頭を下げた。


 二人も手を振った。


 やがて、その姿は街道の向こうへ消えていった。


     *


 昼を過ぎたころ。


 帳場に座った喜助は、一冊の帳面を開いた。


 昨日まで真っ白だった紙。


 その一番上に、筆を置く。


 墨をつける。


 ゆっくりと、名前を書いた。


 ――清吉。


 その下に、歳を書いた。


 出身地を書いた。


 そして、しばらく考えてから、顔を描き始めた。


 おきぬが隣から覗き込む。


「ずいぶん真面目な顔だねえ」


「真面目だったからな」


「笑ってたよ」


「そうか?」


「朝、少しね」


 喜助は筆を止めた。


 それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「じゃあ、これでいい」


「どこが?」


「笑ってる」


「どこがだい」


 おきぬが笑った。


 喜助の描いた清吉の顔は、少しだけ不器用な笑顔を浮かべていた。


 おきぬは、その横に筆を取った。


 そして、短く書いた。


 ――江戸へ奉公に行く。いい奉公先が見つかりますように。


 書き終えると、しばらく眺めた。


「これでいいかね」


「ああ」


 喜助が頷いた。


 おきぬは帳面を閉じた。


 最初の一人だった。


 この宿を訪れた、最初の旅人。


 明日には、また別の誰かが来るかもしれない。


 来ないかもしれない。


 それでもいい。


 宿帳の最初の頁には、もう一人の名前がある。


 清吉。


 江戸へ向かった、若い旅人。


 そしてその横には、二人が残した小さな記憶があった。


 関宿の旅籠に泊まった、一夜の記憶が。


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