↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
宿帳  作者: 灯野 しおん
第一章 喜助とおきぬ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/36

第一話 旅籠の前

 朝の風が、街道を吹き抜けていた。


 山のほうから下りてきた冷たい風に、道端の草が細かく揺れている。


 空はよく晴れていた。


 昨夜の雨が嘘のように、青い空が高く広がっている。


 関宿の街道には、朝の支度をする音が少しずつ増えていた。


 戸を開ける音。


 箒で土間を掃く音。


 遠くでは、馬の蹄が乾いた道を叩いている。


 まだ人の姿はまばらだった。


 そんな街道の一角に、一軒の旅籠があった。


 大きな宿ではない。


 間口も狭く、隣の家と肩を寄せるように建っている。


 新築というほど新しくもない。


 だが、柱は磨かれ、軒先もきれいに整えられていた。


 まだ誰のものでもないような、真新しい静けさが残っている。


 その旅籠の前に、男と女が並んで立っていた。


「……いよいよだねえ」


 女が言った。


 おきぬだった。


 紺色の着物の袖を少しつまみながら、旅籠を見上げている。


 隣に立つ喜助は、黙って建物を眺めていた。


「喜助さん」


「ん?」


「いよいよだよ」


「聞こえてる」


「そうじゃなくて」


 おきぬが横目で見る。


「今日から、ここがうちなんだからね」


「ああ」


「旅籠なんだからね」


「ああ」


「分かってる?」


「分かってる」


「……なんだか、嬉しくないみたいじゃない」


 喜助は少しだけ困った顔をした。


「嬉しいさ」


「ほんとに?」


「ああ」


「顔に出てないけど」


「出すのは苦手なんだ」


「知ってる」


 おきぬが笑った。


 その笑い声に、喜助もほんの少しだけ口元を緩める。


 二人の前には、まだ閉じた戸がある。


 その向こうには、これから旅人が眠る部屋がある。


 昨日まで二人で拭き掃除をしていた畳。


 新しく張り替えた障子。


 土間の隅に積んだ薪。


 台所には米がある。


 味噌もある。


 布団も揃えた。


 湯を沸かす釜もある。


 あとは――


 旅人が来るだけだった。


「誰か来るかな」


 おきぬが街道の先を見た。


「来るだろ」


「どうして?」


「ここは街道だ」


「そうだけどさ」


 おきぬは腕を組んだ。


「旅籠なんて、そこらじゅうにあるじゃない」


「うちにも来る」


「自信あるねえ」


「ない」


「ないのかい」


 おきぬが吹き出した。


 喜助は笑わずに街道を見ている。


 遠くから、旅人が一人歩いてきた。


 笠をかぶり、荷を背負っている。


 まだ顔は見えない。


「ねえ、喜助さん」


「ん?」


「どんな人が泊まるんだろうね」


「さあな」


「商人かな」


「かもしれん」


「伊勢参りの人かな」


「そうかもしれん」


「若い人かな」


「どうだろうな」


「お年寄りだったら?」


「布団を柔らかくしてやればいい」


「子ども連れだったら?」


「飯を少し早く出す」


「足が痛い人だったら?」


「湯を使ってもらう」


 おきぬは黙った。


 それから、くすりと笑った。


「やっぱり、喜助さんだね」


「何がだ」


「そういうところ」


 喜助は答えなかった。


 街道を歩いてくる旅人を見ていた。


 旅人は、どこから来たのだろう。


 どこへ行くのだろう。


 何日歩いてきたのだろう。


 家には、誰か待っている人がいるのだろうか。


 それとも――


 帰る家そのものが、もうないのだろうか。


 旅人の顔が、少しずつ近づいてくる。


 喜助は目を細めた。


「喜助さん」


「ん?」


「この宿、どんな宿にしたい?」


 今度は、喜助もすぐには答えなかった。


 旅籠を見上げる。


 まだ誰の思い出も染みついていない柱。


 誰も座ったことのない帳場。


 誰も眠ったことのない布団。


 そして、奥の部屋に置いた一冊の帳面。


 昨夜、おきぬが買ってきたものだった。


 白い紙が何十枚も綴じられている。


 これから、そこに旅人の名前を書く。


 何人になるのか。


 何十人なのか。


 何百人なのか。


 喜助には分からない。


「……また来たいと思ってもらえる宿がいい」


 やがて、そう言った。


 おきぬは喜助を見た。


「また来たい?」


「ああ」


「それだけ?」


「それだけで十分だろ」


「そうだね」


 おきぬは笑った。


「私も、それがいい」


 しばらく二人で街道を眺めた。


 朝の風が、二人の着物の裾を揺らしていく。


 やがて、先ほどの旅人が目の前まで来た。


 男だった。


 笠を外すと、四十ほどに見える。


 額には汗が浮かび、肩には旅の疲れがにじんでいる。


 男は二人を見て、それから旅籠を見た。


「ここは……旅籠かね?」


 おきぬが一歩前へ出た。


「はい」


 明るい声だった。


「旅籠ですよ。どうぞ、上がってくださいな」


 男は少し驚いたように瞬きをした。


「泊めてもらえるか」


「もちろんです」


「まだ朝だが」


「朝でも旅人でしょう?」


 おきぬが笑う。


「旅の途中なら、休んでいってください」


 男はしばらくおきぬを見ていた。


 それから、ふっと頬を緩めた。


「……では、お言葉に甘えよう」


「はい。喜助さん」


「分かった」


 喜助は男の荷物に手を伸ばした。


「お持ちします」


「いや、自分で――」


「重いでしょう」


「そうだが……」


「では、半分」


 喜助が荷物を受け取った。


 男は何か言おうとしたが、結局、笑った。


「変わった夫婦だな」


「よく言われます」


 おきぬが答えた。


「まだ誰にも言われたことないけど」


「喜助さん、そういうこと言わないの」


 男が笑った。


 喜助も、今度は隠さなかった。


 少しだけ笑った。


 戸が開く。


 からり、と乾いた音がした。


 朝の光が土間へ差し込んだ。


 その光の中へ、旅人が一歩入る。


 喜助とおきぬにとって、それは初めて迎える客だった。


 けれど二人は、そんなことを特別には考えていなかった。


 疲れているなら、休んでもらう。


 腹が減っているなら、飯を出す。


 寒ければ、火を起こす。


 それだけだった。


 旅籠とは、そういう場所なのだと思っていた。


 旅人が上がったあと、おきぬは一度だけ振り返った。


 街道の向こうから、また別の人影が見える。


 そのさらに向こうにも、人がいる。


 今日も誰かが歩いている。


 どこかへ向かうために。


 誰かに会うために。


 あるいは、何かを置いてくるために。


 おきぬは、まだ何も書かれていない宿帳のことを思った。


 あの白い紙に、これからどんな名前が並ぶのだろう。


 どんな人が来るのだろう。


 そして、その人たちは、どんな顔をして帰っていくのだろう。


「喜助さん」


「ん?」


「忙しくなるかもしれないね」


「そうだな」


「楽しみだね」


「ああ」


 旅籠の戸が、静かに閉じた。


 その奥の帳場には、一冊の宿帳が置かれている。


 まだ、最初の一文字さえ書かれていない。


 けれど、それも長くはなかった。


 今日、この宿に泊まった旅人の名から――


 この宿の時間は、始まっていく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。