第十話 奉公初日
朝は、まだ薄暗かった。
清吉はいつもより早く目を覚ました。
見慣れない天井。
けれど、昨日までとは違う。
今日から、ここで働く。
そう思うと、胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。
布団を畳み、身支度を整える。
部屋を出ると、もう喜助が起きていた。
「早いな」
「はい」
「よく眠れたか?」
「はい」
少し間を置いて、清吉は頭を下げた。
「今日から、よろしくお願いします」
「ああ。こちらこそな」
喜助はそれだけ言って、箒を渡した。
「まずは表を掃いてくれるか」
「はい」
清吉は箒を受け取った。
*
旅籠の朝は早い。
客が起きる前に、廊下を掃く。
戸を開ける。
昨夜の火を始末し、新しい火を起こす。
水を汲む。
朝餉の膳を運ぶ。
やることは、思っていたより多かった。
清吉は一つずつ覚えていった。
「そこは、もう少し端まで」
喜助が言う。
「はい」
「その湯は客間へ」
「はい」
「清吉、それが終わったら裏の薪を見ておくれ」
おきぬの声が飛ぶ。
「はい!」
返事をするたび、身体が忙しく動く。
商家で奉公していた頃とは、少し違う。
物を売るのではなく、人を迎える。
客が何を求めているのか。
いつ湯が欲しいのか。
どの荷物をどこへ置けばいいのか。
言われる前に気づかなければならないことも多かった。
昼前。
清吉が客間の布団を整えていると、廊下の向こうから小さな音がした。
ずる。
ずる。
振り返る。
咲がこちらへ向かってきていた。
「お嬢さん?」
清吉がしゃがむ。
咲は嬉しそうに手を伸ばした。
「また来たのかい」
おきぬが笑いながら追いついてくる。
「最近、どこへでも行っちまうんだよ」
「元気ですね」
「元気すぎるくらいさ」
咲は清吉の膝に手をついた。
立ち上がろうとしている。
「おいおい」
清吉が慌てて支える。
「まだ早いよ」
「そのうち立つよ」
おきぬが言う。
「そうしたら、もっと大変になる」
清吉は笑った。
「そうですね」
咲が声を上げた。
その声が、旅籠の中に響いた。
*
昼を過ぎると、客が一人、旅立っていった。
清吉は荷物を持って表まで運んだ。
「ありがとう」
「お気をつけて」
そう言って頭を下げる。
客が歩き出す。
その背中を見送っていると、喜助が隣に立った。
「今の言い方、よかったぞ」
「そうですか?」
「ああ」
「何がですか?」
「客を見送る顔だ」
清吉は少し照れた。
「商家にいた頃とは違いますね」
「そうだろうな」
「でも……」
清吉は通りを見た。
「嫌いじゃないです」
喜助は笑った。
「そうか」
*
夕方。
仕事が一段落すると、清吉はようやく息をついた。
「疲れたかい?」
おきぬが聞く。
「少し」
「最初はそんなもんだよ」
おきぬは膳を置いた。
「食べな」
「ありがとうございます」
清吉は箸を取った。
温かい飯だった。
味噌汁の湯気が立っている。
それを見ていると、ふと実家のことを思い出した。
父。
母。
兄たち。
自分がいなくなって、今頃どうしているだろう。
「……手紙を書こう」
清吉は小さく呟いた。
*
夜。
旅籠が静かになった。
客も眠り、表の戸も閉じられている。
清吉は部屋で文机に向かった。
紙を一枚、前に置く。
筆を持つ。
けれど、すぐには書けなかった。
何から書けばいいのか。
しばらく考えてから、筆を下ろした。
まず、
**父上様、母上様。**
と書いた。
少しだけ手が止まる。
それから、ゆっくりと続きを書いた。
奉公先が決まりました。
旅の途中で一度泊めていただいた旅籠です。
主人は喜助さん。
女将さんはおきぬさん。
小さな娘さんがいます。
皆さん、よくしてくださいます。
仕事も、これから少しずつ覚えていくつもりです。
江戸へ行くことも考えましたが、もうしばらく、ここで働いてみようと思います。
どうか心配しないでください。
清吉はそこで筆を止めた。
最後の一文をどうするか迷った。
やがて、もう一度筆を取る。
**父上様、母上様。**
**奉公先が決まりました。**
今度は、それだけでよかった。
清吉は手紙を畳んだ。
*
その夜。
帳場では、喜助が宿帳を開いていた。
新しいページに、清吉の名がある。
その名前を見ながら、喜助は小さく笑った。
すると背後から、おきぬの声がした。
「何を見てるんだい?」
「清吉の名前だ」
「そうかい」
おきぬも帳面を覗き込む。
「最初は客だったのにねえ」
「ああ」
「面白いもんだね」
喜助は頷いた。
旅人が来る。
泊まる。
そして、旅立っていく。
けれど、ときには。
旅立たずに、ここに残る人もいる。
帳場の奥から、清吉が戸を閉める音が聞こえた。
新しい朝が来れば、また仕事が始まる。
この宿で、清吉の時間も始まった。




