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宿帳  作者: 灯野 しおん
第一章 喜助とおきぬ

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第十一話 お伊勢参り

 咲が三つになった頃。


 旅籠の庭に、小さな草履が並ぶようになった。


 朝になると、咲はそれを履いて外へ出る。


 庭の隅にしゃがみ込み、落ち葉を拾う。


 虫を見つければ、しゃがみ込んでじっと眺める。


 清吉が箒を動かしていると、その後ろをついて歩くこともあった。


「清吉さん」


「なんだい?」


「これ」


 咲が小さな手を差し出す。


 掌には、丸い石が一つ。


「おお」


 清吉はしゃがみ込んだ。


「綺麗な石だな」


「でしょう?」


「どこで見つけたんだ?」


「あっち」


 咲が指差す。


「そうか」


 清吉は笑った。


「じゃあ、大事にしまっておこうか」


「うん」


 咲は嬉しそうに頷いた。


 清吉は、咲が掃いたばかりのところを歩いても、何も言わない。


 ただ、咲が落ち葉を拾ってくれると、


「助かったよ」


と言う。


 それが嬉しいのか、咲はまた落ち葉を拾う。


 そんな二人を、少し離れたところからおきぬが見ていた。


 お腹は、もうずいぶん大きくなっている。


「清吉」


「はい?」


「甘やかしてないかい?」


「そうですか?」


「咲が掃除を手伝ってるつもりになってるよ」


「いいじゃないですか」


 清吉は笑った。


「そのうち、本当に手伝ってくれるでしょう」


「そうかねえ」


 おきぬも笑った。


 旅籠は、今日も穏やかに朝を迎えていた。


     *


 その日の夕方。


 一組の夫婦が宿を訪れた。


 年の頃は五十を越えているだろうか。


 夫は背が低く、少し丸い。


 妻は細身で、歩くたびに着物の裾が小さく揺れた。


 二人とも長旅の疲れが顔に出ていた。


「お泊まりですか?」


 喜助が尋ねる。


「ええ。一晩、お願いしたいんです」


「どうぞ」


 喜助は荷物を受け取った。


「どちらから?」


「遠州のほうから来ました」


「それは遠かったでしょう」


「ええ」


 夫が笑った。


「でも、ここまで来たんですから」


「どちらまで?」


 おきぬが聞く。


 夫婦は顔を見合わせた。


「伊勢です」


「ああ」


 おきぬの顔が明るくなった。


「お伊勢参りかい」


「はい」


 妻が笑う。


「一生に一度くらい、二人で行ってみようかって」


「いいねえ」


 おきぬは嬉しそうだった。


「お二人で?」


「はい」


 夫が答えた。


「子供らが小さい頃は、そんな余裕もありませんでしたから」


「そうだねえ」


 妻が夫を見る。


「上の子が生まれた頃は、毎日が大変だったもの」


「その次が生まれて」


「その次も生まれて」


「気がついたら、みんな大きくなってた」


 夫婦は顔を見合わせて笑った。


 その笑い方が、長い年月を一緒に過ごしてきた二人のものだった。


     *


 夕餉の席では、子供たちの話が続いた。


「一番上は、もう嫁に行ってな」


「次男は家を継いで」


「末っ子は、まだ家にいるけど」


「それでも、昔ほど手はかからなくなった」


 妻が湯呑みを両手で包む。


「だから、今度は私たちの番だって」


 夫が笑った。


「一生に一度くらい、お伊勢さんを見てみようってな」


 少し離れたところで、喜助がお膳を片付けている。


 おきぬは、その話を聞きながら自分のお腹に手を添えた。


 咲がその隣に座っている。


「おかあちゃん」


「なあに?」


「おなか、あかちゃん?」


「そうだよ」


「もうすぐ?」


「もう少しかな」


 咲は、おきぬのお腹にそっと手を置いた。


 向こうの夫婦が、その様子を見ていた。


「可愛いねえ」


 妻が言う。


「三つくらいかい?」


「そうです」


「うちの末っ子も、そのくらいだった頃があったね」


 妻の声が少し柔らかくなる。


「本当に、あっという間だった」


     *


 翌朝。


 夫婦は早くから身支度を整えた。


 喜助が荷物を表まで運ぶ。


「ありがとうございました」


「こちらこそ」


 妻が頭を下げた。


 おきぬも戸口まで出てくる。


「お伊勢さんまで、まだ道がありますからね。気をつけて」


「はい」


「それから」


 おきぬが振り返った。


「これ、持っておいき」


 手には、布で包んだ小さな包みがある。


「なんでしょう?」


 妻が受け取る。


「おいなりさん」


「まあ……」


「道中でお腹が空いたら食べな」


 夫が包みを見つめた。


「こんなものまで……」


「うちの宿ではね」


 おきぬが笑う。


「旅立つ人には、持っていってもらうんですよ」


 夫婦は顔を見合わせた。


「ありがたいねえ」


「本当に」


 妻が大切そうに包みを胸元へしまった。


「帰り道にも、ここへ寄りたいくらいだ」


「帰りに道が合えば、またお寄りなさい」


 喜助が言う。


「そのときは、またおいなりさんを作りますから」


「では、約束ですね」


 夫が笑った。


「約束だ」


 おきぬも笑った。


 夫婦は深く頭を下げた。


「それでは」


「お気をつけて」


 二人は肩を並べて歩き出した。


 おいなりさんの包みを、妻が大事そうに抱えている。


 その姿を、咲も見ていた。


「おかあちゃん」


「ん?」


「おいなりさん、食べるの?」


「旅の途中で食べるんだよ」


「いいなあ」


「咲も食べるかい?」


「食べる!」


 おきぬが笑った。


「じゃあ、お昼にしようか」


 咲が嬉しそうに笑う。


 その隣で、清吉も笑っていた。


 旅籠の前を、秋の風が吹き抜けていく。


 夫婦の姿は、もう小さくなっていた。


     *


 その日の宿帳には、夫婦二人の名前が並んだ。


 遠い道を歩いて。


 子供たちの手が離れて。


 ようやく二人で始めた旅。


 その途中で、この宿に一晩泊まった。


 そして旅立つとき、手の中には小さなおいなりさんの包みがあった。


 たった一晩。


 けれど、その一晩もまた。


 誰かの人生の中に残る一頁だった。


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