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宿帳  作者: 灯野 しおん
第一章 喜助とおきぬ

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第十二話 千

 それから一年が過ぎた。


 春が来て、夏が過ぎ、秋を越えた。


 旅籠の中には、以前よりずっと子どもの声が増えていた。


「おとうちゃん!」


 朝から咲の声が響く。


「どうした?」


「千が歩いた!」


 喜助が振り向く。


 見ると、千が畳の上に立っていた。


 まだ足元は頼りない。


 小さな手を前に伸ばし、何かを探すように身体を揺らしている。


「おお」


 喜助がしゃがむ。


「おいで」


 千が父親の顔を見る。


 一歩。


 小さな足が前へ出る。


 もう一歩。


 そして三歩目で、ぺたりと尻餅をついた。


「わあ!」


 咲が駆け寄る。


「千、歩いたね!」


 千は何が起きたのか分からない顔をして、それから笑った。


 咲も笑う。


「もう一回!」


「咲、そんなに急かすな」


 喜助が笑った。


「千は今、頑張ってるんだから」


「だって、お姉ちゃんだから教えてあげるの」


「何を教えるんだ?」


「歩き方」


「それは、お前が教わるほうだったろ」


「もう知ってるもん」


 そこへ、おきぬがやってきた。


「朝から何を騒いでるんだい」


「おかあちゃん、千が歩いた!」


「まあ」


 おきぬは嬉しそうに千を抱き上げた。


「ほんとかい」


 千が母親の肩に手を伸ばす。


「よかったねえ」


 その横で、咲が胸を張る。


「私が教えたの」


「そうかい」


 おきぬは笑った。


「じゃあ、咲は偉いねえ」


「うん!」


 清吉が廊下を通りかかり、足を止めた。


「どうしたんです?」


「千が歩いたんだよ」


「おお」


 清吉も笑った。


「お嬢も、もう立派なお姉さんですね」


「そうでしょう?」


 咲が得意そうに答える。


「私、お姉ちゃんだから」


「それじゃあ、清吉さんの仕事も手伝ってくれるかい?」


「うん!」


 返事だけは早い。


 清吉は笑った。


「頼もしいなあ」


     *


 朝餉が終わったあと。


 喜助は帳場に座っていた。


 膝の上には千がいる。


 千は宿帳を覗き込んでいる。


 紙の上には、たくさんの名前が並んでいる。


 旅の途中で立ち寄った人。


 伊勢へ向かった人。


 江戸へ向かった人。


 故郷へ戻る人。


 そして、その中に一つ。


 家族の名前がある。


 **咲。**


 喜助はその名前を見た。


 もう四年前になる。


 あの日、小さな娘を抱いたまま、何を書けばいいのか分からなかった。


 それでも、最後には一文字だけ書いた。


 咲。


 今、その名前の隣には、まだ何もない。


 千が紙に手を伸ばした。


「こら」


 喜助が笑って手を止める。


「これは食べるものじゃないぞ」


 千は不思議そうに父親を見る。


 喜助は筆を取った。


「千」


 声に出してみる。


「千……」


 そこへ、おきぬが来た。


「何してるんだい?」


「名前を考えてる」


「もう決めただろう?」


「そうだったな」


 喜助は笑った。


 おきぬが隣に座る。


「千」


 おきぬも小さく呼んだ。


「いい名前だねえ」


「うん」


「どうして千にしたんだい?」


 喜助は少し考えた。


「長く生きてほしいから」


 それだけだった。


 おきぬは笑った。


「それでいいね」


 喜助は筆を下ろした。


 宿帳の新しい行に、一文字を書く。


 **千。**


 その横に、年を書き添える。


 小さな文字が、紙の上に残った。


 咲の隣に、もう一つ。


 家族の名前が増えた。


     *


 昼前。


 表から旅人の声が聞こえた。


「こんにちは」


 清吉が迎えに出る。


「いらっしゃいませ」


 その声に、咲が駆けていく。


「お客さん?」


「そうだよ」


「私も挨拶する!」


 その後ろから、千がよちよち歩いてくる。


「危ないよ」


 清吉が手を伸ばす。


 千はその手を掴んだ。


 咲は客の前で、胸を張った。


「こんにちは!」


「はい、こんにちは」


 旅人が笑った。


 宿の中に、また人の声が増える。


 喜助は帳場から、その様子を眺めていた。


 四年前には、咲の泣き声だけだった。


 今は二つ。


 そのうち、三つ、四つと増えていくのだろうか。


 そう思うと、少し可笑しかった。


 忙しくなる。


 けれど、それも悪くない。


 宿は、人が来る場所だ。


 旅人も。


 家族も。


 みんなが声を残していく。


 その日、宿帳には一つの名前が増えた。


 **千。**


 小さな一文字が、長い旅の始まりだった。


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