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宿帳  作者: 灯野 しおん
第二章 次一と咲

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第八話 旅立ちの朝

 翌朝から、新吉は父親について、近くの町へ商いに出かけた。


 朝餉を済ませると、二人は本を包んだ風呂敷を背負い、街道へ向かった。


「夕方には戻ります」


 新吉がそう言って出ていくのを、千は格子戸の内側から見送った。


 その日、千は何度も街道のほうを気にした。


 けれど、夕方になって戻ってきた新吉の姿を見つけると、今度は自分から駆け寄った。


「お帰りなさい」


「ただいま」


 新吉は、背負っていた荷を下ろした。


「今日は、どこまで行ったの?」


「亀山のほうまで。途中の店で本を見てもらったんだけど、思っていたより、読み物を欲しがる人が多くてね」


「どんな本が売れたの?」


「旅の話や、読みやすい物語かな。それから、子どもに読ませるものを探している人もいたよ」


「へえ……」


 千の目が輝いた。


「それ、もっと聞きたい」


 新吉は笑った。


「いいよ。荷を片づけたら話そう」


 その言葉どおり、夕餉のあと、二人は帳場の隅に並んで座った。


 新吉が道中で見た店や町の様子を話し、千が紙に描いていく。


「この道の先に、川があるんだよね?」


「そう。橋を渡ると、店が並んでいて……」


「橋は、こんな形?」


「ううん、もう少し幅が広いかな。荷を担いだ人も通るし、馬も通るから」


「じゃあ、ここを広くして……」


 千は筆を動かした。


 新吉は、その手元を覗き込んだ。


「本当に、描くのが早いね」


「だって、忘れないうちに描いておきたいんだもの」


「俺が話したことを、こんなふうに残してくれるのは、なんだか不思議だな」


「そう?」


「うん。俺が通り過ぎた町が、ここに残るんだから」


 千は筆を止め、描きかけの絵を見た。


「……そうだね」


 旅人が置いていった話が、紙の上で形になる。


 それを見た人が、また知らない場所を思い浮かべる。


 今まで千は、そんなふうに絵を描いてきた。


 けれど今は、新吉が歩いた道を、自分も歩いてみたいと思っていた。


「ねえ、新吉さん」


「うん?」


「明日も、今日みたいに話してくれる?」


「もちろん」


 新吉は、少し照れたように笑った。


「俺も、千に聞いてほしい話が、まだたくさんあるから」


 千は、嬉しそうに頷いた。


     *


 次の日も、その次の日も、二人はよく話した。


 新吉が商いから戻ると、千がその日の出来事を尋ねた。


 どんな店があったのか。


 どんな人が本を買ったのか。


 道の途中で、何を見たのか。


 新吉は、初めのうちは商いの話ばかりしていたが、やがて、道端に咲いていた花や、夕暮れの山の色まで話すようになった。


「山って、夕方になると、そんな色になるの?」


「うん。日が落ちる前は、少し赤く見えるんだ」


「見てみたいなあ」


「……今度、一緒に見ようよ」


 新吉がそう言うと、千は筆を持ったまま顔を上げた。


 二人の目が合う。


 新吉は、しまったという顔をして、慌てて付け加えた。


「旅に出たら、いろんな山が見られるからさ」


「……うん」


 千は、笑って頷いた。


 それから紙の隅に、小さな山を描き足した。


 夕日に染まった山。


 そのふもとを歩く、二人の小さな人影。


 それを見つけた新吉は、何も言わなかった。


 ただ、千の隣で、しばらくその絵を眺めていた。


 そんな二人を、咲と次一は、仕事の合間に見かけるようになった。


 咲が客の膳を片づけていると、帳場から千の笑い声が聞こえてくる。


 新吉が何かを話し、千が身を乗り出して聞いていた。


「……楽しそうだね」


 咲が小さく言うと、次一も帳面から顔を上げた。


「ええ。本当に」


「千が、あんなに誰かの話を聞きたがるなんてね」


「話を聞いているというより、もう、一緒に旅をしているような顔をしていますよ」


 次一の言葉に、咲は思わず笑った。


「そうね」


 咲は、帳場の隅に置かれた絵を見た。


 見知らぬ町。


 知らない橋。


 遠くへ続く道。


 そこには、千が今まで宿の中で描いてきたものとは違う、広がりがあった。


「……千、行っちゃうのかな」


 ふと、咲が呟いた。


 次一は、すぐには答えなかった。


 自分も、この家に婿入りしてから、まだ日が浅い。


 生まれ育った家を離れ、知らない家の仕事を覚えることが、どれほど心細いかは、身をもって知っている。


「寂しくなりますね」


「うん」


「でも……」


 次一は、千の笑顔を見た。


「千が、あんな顔をしているのなら」


 咲も、もう一度、妹のほうを見た。


 嬉しそうに笑う千。


 その隣で、少し照れながら話を続ける新吉。


「……そうね」


 咲は、そっと頷いた。


「千が決めたことなら、応援してあげたいね」


 二人は、それ以上、何も言わなかった。


 ただ、その日もいつもどおり、客の膳を運び、部屋を整え、明日の仕込みをした。


 宿の暮らしは変わらない。


 けれど、帳場の隅には、少しずつ知らない町の絵が増えていった。


     *


 夜になると、喜助とおきぬは、行商人と話をするようになった。


 最初は商いの話だった。


 どこから本を仕入れるのか。


 どんな町を回るのか。


 一度の旅に、どれくらいの日数がかかるのか。


 喜助は、ひとつずつ確かめるように尋ねた。


「いつも、親子で旅をしているんですか」


「ええ。今までは私が中心でしたが、これからは新吉にも、少しずつ任せていこうと思っています」


 行商人は、湯呑みを置いた。


「本を売るのは、ただ品物を渡せばいいというものでもありません。店の人との付き合いもあるし、町ごとに売れ筋も違う。道中の費用だってかかる。そういうことを、ひとつずつ覚えてもらわないとね」


「なるほど」


「ですが、あいつは人の話をよく聞く。商いを覚えるには、いいところだと思っています」


 喜助は頷いた。


 行商人は、少し間を置いてから続けた。


「千さんも、話をよく聞く娘さんですね」


「……ええ」


「ただ聞いているだけじゃない。聞いたことを覚えて、絵にして、次に会ったときには、そこからまた話を広げる。ああいう人が一緒に旅をしてくれたら、こちらも心強いでしょう」


 その言葉に、喜助の眉がわずかに動いた。


「千が、旅の役に立つと?」


「もちろんです。町の様子を描き留めるのも、道を覚えるのも、商いには役に立ちます。何より、あの子は知らないものを見たいと思っている。そういう気持ちは、旅を続ける力になると思いますよ」


 行商人の声には、迷いがなかった。


「私は、二人が望むなら、ぜひ一緒に旅をさせてやりたいと思っています」


 喜助は、湯呑みを手に取った。


 湯は、もうぬるくなっていた。


「……千は、旅籠の娘です」


「ええ」


「この宿で育って、ここで働いてきた。外の暮らしを、知っているようで知らない」


 喜助は、少しだけ目を伏せた。


「旅は、絵に描いたようにはいかないでしょう。雨が降る日もある。道が悪い日もある。商いがうまくいかないこともある。そんな暮らしに、千がついていけるのか……」


 行商人は、すぐには答えなかった。


 喜助の心配が、娘を手放したくないというだけのものではないと分かっていたからだ。


「心配なのは、よく分かります」


 やがて、行商人は静かに言った。


「私も、倅を連れて歩き始めたころは、そうでした。道中で熱を出したこともあります。雨に降られて、濡れた荷を抱えながら夜を越したこともある。楽なことばかりではありません」


 それから、穏やかに笑った。


「だからこそ、千さんが本当に旅に出たいのか、私も確かめたいんです。倅を好きだから、というだけではなく、この暮らしを自分で選びたいと思っているのか」


「……そうですね」


「もし二人がそう思っているなら、私は二人を迎えるつもりです。千さんには、旅のことも商いのことも、隠さず話します。そのうえで決めてもらいたい」


 喜助は、しばらく黙っていた。


 隣で聞いていたおきぬが、そっと口を開いた。


「私はね、あの子に、見たいものを見せてやりたいんです」


 喜助が妻を見た。


「この宿で育って、旅人の話を聞いて、絵を描いてきたでしょう。知らない町のことを聞くたびに、目を輝かせていた」


 おきぬは、少し笑った。


「いつか、自分の目で見てみたいと思うのも、無理はないよ」


「……おきぬ」


「もちろん、寂しいさ。毎日顔を見ていた娘がいなくなるんだからね」


 そう言いながら、おきぬは湯呑みを両手で包んだ。


「でも、寂しいからって、行くなとは言いたくないんだよ」


 喜助は、何も言わなかった。


 おきぬも、すぐには続けなかった。


 部屋の外から、風が吹き込んできた。


 やがて喜助は、長く息を吐いた。


「……千と、新吉の気持ちを、もう一度よく聞きましょう」


「ええ」


「そのうえで、決めます」


 行商人は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 喜助は首を振った。


「礼を言われるようなことではありません。千の一生に関わることですから」


 そう言って、喜助は湯呑みを置いた。


 まだ心配は消えなかった。


 けれど、娘が見つめている道を、自分の心配だけで閉ざしてはいけない。


 そんな思いが、胸の奥に残っていた。


     *


 それから数日、千と新吉は、これまで以上に一緒に過ごした。


 朝、宿の仕事が始まる前に、千が新吉に絵を見せることもあった。


 昼間は新吉が父親について商いに出かけ、帰ってくると、二人でその日の話をした。


 新吉は、千が描いた町の絵に、実際に見た店や橋の様子を付け足した。


 千は、それを聞きながら、新しい紙を広げた。


「この町には、こんな店もあったよ」


「じゃあ、ここに描いておこう」


「うん。あと、この先には小さな社があってね……」


「それも描きたい」


 いつしか、新吉も筆を持つようになった。


 千ほど上手ではない。


 橋を描けば欄干が曲がり、店を描けば屋根が傾いた。


 それでも千は、笑わなかった。


「この橋、ちょっと斜めになってるよ」


「やっぱり?」


「でも、分かるよ。ちゃんと橋に見えるもの」


「それは、褒めてるのかな」


「褒めてるよ」


 千が笑う。


 新吉も笑う。


 その声が、帳場から廊下へ、廊下から庭へと流れていった。


 ある晩、喜助は宿帳を開き、千が描いた江戸の絵を眺めていた。


 見知らぬ橋も、船も、店も、今はまだ紙の上にしかない。


 けれど、千はいつか、そこへ行くのかもしれない。


 喜助は筆を取り、帳面の余白に、小さく書き添えた。


 ――千、旅立ちを望む。


 書き終えても、しばらく筆を置けなかった。


     *


 旅立ちの日は、思っていたより早くやってきた。


 夜明け前、宿の台所には、もう火が入っていた。


 おきぬは握り飯を用意し、咲は旅の荷を確かめていた。次一は、道中で必要になりそうなものをひとつずつ揃えている。


 千は、自分の部屋で、絵を包んでいた。


 今まで描いた関宿の道。


 旅人から聞いた江戸の町。


 新吉が教えてくれた橋や店。


 紙を重ね、紐で結ぶ。


 最後に、宿帳から写し取った小さな絵を一枚、そっと挟んだ。


 関宿の街道。


 いつもの宿。


 ここから先へ続く道。


 千は、その絵をしばらく見つめたあと、包みの中へしまった。


「千、そろそろだよ」


 咲の声がした。


「……うん」


 千は包みを抱え、部屋を出た。


 玄関には、新吉と行商人が待っていた。


 新吉の荷は、いつもより少し大きかった。


 その傍らに、千が持っていく小さな包みが並んでいる。


 喜助は、娘の前に立った。


「千」


「はい、おっとう」


「旅は、思いどおりにならないこともあるだろう」


「うん」


「困ったときは、ひとりで抱え込むな。新吉さんと相談するんだ。分からないことは、聞けばいい。無理をして、平気な顔をする必要もない」


 千は、目を伏せて頷いた。


「……うん。分かった」


 喜助は、娘の頭に手を置きかけて、そっと下ろした。


 もう、小さな子どもではない。


 自分で行きたい場所を決め、自分で歩き出そうとしている。


「……気をつけてな」


 それだけ言うと、喜助は娘の肩を軽く叩いた。


 千の目に、涙が浮かんだ。


「おっとう……ありがとう」


 おきぬが、包みを差し出した。


「道中で食べな。おいなりさんも入れてあるよ」


「おっかぁ……」


「腹が減ったら、ちゃんと食べるんだよ。疲れたら休む。夜は冷えることもあるから、着るものも出しやすいところに入れておくんだ」


「うん」


「それから……」


 おきぬは言いかけて、少し笑った。


「帰ってきたら、どんな町を見たのか、たくさん聞かせておくれ」


 千は、とうとう涙をこぼした。


「……うん。いっぱい話す」


 おきぬは娘を抱きしめた。


 しばらく、二人はそのままでいた。


 やがて咲が、千の肩をそっと抱いた。


「千、向こうでも、ちゃんと食べるのよ」


「姉さんまで……」


「だって、心配だもの」


 咲は笑った。


「でも、千が見たいものを見られるなら、私も嬉しい。帰ってきたら、私にも話してね」


「……うん」


 次一も頷いた。


「道中、気をつけて。何かあったら、手紙をください」


「次一さん、ありがとう」


 千は、家族の顔をひとりずつ見た。


 いつもの宿。


 いつもの玄関。


 朝になれば、旅人がやってくる。


 夕方になれば、誰かが帰ってくる。


 ずっとここで暮らしてきた。


 その場所を離れるのは、やっぱり寂しかった。


 けれど、格子戸の向こうには、まだ知らない道が続いている。


 千は涙を拭き、新吉の隣に立った。


「……行ってきます」


 喜助は、ゆっくりと頷いた。


「ああ。行っておいで」


 おきぬも笑った。


「行ってらっしゃい、千」


 戸が開く。


 朝の空気が、ひんやりと頬に触れた。


 街道には、薄い朝靄がかかっていた。


 行商人が荷を背負い、新吉が千の包みを持った。


「持とうか?」


「大丈夫。自分で持てるよ」


「そっか」


 新吉は笑い、包みを千に返した。


 二人は並んで歩き出した。


 数歩進んだところで、千は一度だけ振り返った。


 玄関に、喜助とおきぬ、咲と次一が立っていた。


 千は深く頭を下げた。


 それから、もう振り返らずに歩き始めた。


 街道の先には、まだ見たことのない町がある。


 知らない橋があり、知らない川があり、知らない人々の暮らしがある。


 千は、そのひとつひとつを、自分の目で見てみたかった。


 隣には、新吉がいる。


 少し先には、行商人の背中が見える。


 朝の光が、街道の先からゆっくりと差し込んでいた。


 宿の玄関に残った喜助は、娘たちの姿が見えなくなるまで、街道を見つめていた。


 おきぬが、そっと隣に立った。


「……行っちまったねえ」


「ああ」


「寂しくなるね」


「……そうだな」


 喜助は、ようやく宿のほうへ顔を戻した。


 格子戸の内側には、千が描いた絵がまだ残っている。


 宿帳にも、あの子の描いた知らない町がある。


 これからは、そこに本物の景色が加わっていくのだろう。


「……帰ってきたら、どんな話を聞かせてくれるかな」


 おきぬが呟いた。


 喜助は、少しだけ笑った。


「さあな。あの子のことだ。話すことが多すぎて、なかなか終わらんかもしれん」


「ふふ。そうだねえ」


 二人は並んで、宿の中へ戻った。


 今日も、旅人がやってくる。


 誰かが泊まり、誰かが旅立っていく。


 けれど今朝、この宿からも、ひとりの娘が旅立った。


 見送る家族の胸に、寂しさと、少しの誇らしさを残して。


 街道の向こうへ続く千の旅は、まだ始まったばかりだった。

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