第七話 旅の向こう
朝から、千は落ち着かなかった。
帳場の掃除をしていても、格子戸の向こうに人影が見えるたび、つい顔を上げてしまう。
通り過ぎていく旅人。
荷を担いだ商人。
連れ立って歩く夫婦。
そのたびに違うと分かっては、また手元へ目を戻した。
「千、そこの拭き残し」
咲に言われ、千は慌てて布を動かした。
「あ、ごめん、姉さん」
「今日はどうしたの? さっきから、ずいぶんそわそわしてるじゃない」
「そ、そんなことないよ」
千は布を畳み直した。
けれど、また格子戸の向こうを見てしまう。
台所から出てきたおきぬが、その様子を眺めていた。
「千」
「なあに、おっかぁ」
「今日、誰か来るんだったかねえ」
千の手が止まった。
「……本の行商人さん」
「そうだったねえ。伊勢から戻ってくる頃か」
「うん」
千は小さく頷いた。
「……今日、来るかな」
「さあねえ。道中のことだから、予定どおりとは限らないよ」
「そうだよね」
返事をしたものの、千の目はまた格子戸へ向いていた。
おきぬは、笑いをこらえるように口元を緩めた。
「それにしても、ずいぶん描いたねえ」
部屋の隅には、何枚もの紙が重ねてあった。
江戸の橋。川沿いの船着き場。本を並べた店。筆や墨を売る店。行商人から聞いた話を思い出しながら、千が少しずつ描き足してきたものだった。
中には、まだ想像だけで描いた町並みもある。
「新吉さんに、見せたいから」
口にしてから、千ははっとした。
おきぬは、何も言わずに娘を見た。
千の頬が、じわじわと赤くなる。
「……おっかぁ」
「はいはい。分かってるよ」
「まだ、何も言ってない!」
「そうかい?」
おきぬは笑いながら、台所へ戻った。
千は唇を尖らせたものの、しばらくすると、また格子戸の向こうを見ていた。
今日こそ、来てくれるだろうか。
私のこと、忘れていないかな。
そんなことを考えては、胸のあたりが落ち着かなくなる。
ひと月は、思っていたより長かった。
*
昼を少し過ぎたころだった。
街道の向こうから、見覚えのある風呂敷包みが近づいてきた。
「あ……!」
千は思わず声を上げた。
本の行商人だった。
その後ろに、新吉がいる。
二人とも、日に焼けた顔をしていた。伊勢までの道を歩き、またこちらへ戻ってきたのだ。
千は、手にしていた布を置いた。
何か言おうと思ったのに、喉のあたりで言葉が止まってしまう。
新吉も千を見つけると、少し驚いたように目を見開いた。
それから、照れたように笑った。
「……久しぶり」
「うん」
千も笑った。
「久しぶり」
たったそれだけの言葉なのに、胸の中がいっぱいになった。
「いやあ、またお世話になります」
行商人が、いつもの調子で声をかけた。
「いらっしゃい。待ってたよ」
おきぬが出迎える。
「このあいだは、どうも。おかげさまで、伊勢でもいい商いができました」
「そりゃあ、よかったねえ」
次一が荷を受け取り、喜助が二人を部屋へ案内しようとした。
その途中、行商人がふと新吉の顔を見た。
「そうそう、おかみさん。聞いてくださいよ」
呆れたような、嬉しそうな顔だった。
「こいつが道中、うるさくてねえ」
「うるさいって、父さん」
「何だい。本当のことだろう」
行商人は千のほうを見た。
「お千ちゃんは元気にしてるかな。今ごろ何をしてるかな。次はいつ宿に着くかなってね。宿場に着くたび、まだ先か、もう近いかって聞くんですよ」
「父さん!」
新吉の顔が、一気に赤くなった。
千も、何を言っていいのか分からず、俯いてしまった。
おきぬは、目を丸くしたあと、くすくすと笑った。
「まあ、そうだったのかい」
「ええ。いやあ、参りましたよ」
行商人は、わざと大きく息をついた。
「こっちは商いのことで頭がいっぱいだっていうのに、倅ときたら、お千ちゃん、お千ちゃんって」
「もう、いいだろ!」
「よくないねえ。父親としては、これだけ気に入った娘さんがいるなら、話をしてみたくなるもんです」
男は、今度は真面目な顔で喜助とおきぬを見た。
「お千ちゃんさえよければ、本当に倅の嫁に来てもらえたらと思っているんですがね」
千は、息を呑んだ。
隣で新吉も、顔を真っ赤にして立ち尽くしている。
「ただねえ……」
行商人は、少しだけ声を落とした。
「うちは、落ち着かない暮らしでしてね。本を仕入れては売り、また次の町へ行く。伊勢にも行けば、江戸にも行く。決まった家にずっといるわけじゃない。倅にも、これからその商いを覚えてもらわなくちゃならない」
男は千を見た。
「旅籠の娘さんには、慣れないことも多いでしょう。朝も早いし、道中は楽なことばかりじゃない。雨に降られる日もあれば、思うように商いができない日もある」
千は、俯いたまま聞いていた。
「だから、急いで決めてほしいという話じゃありません。ただ、もしお千ちゃんが、そういう暮らしも悪くないと思ってくれるなら……倅と一緒に、あちこち歩いてくれたら嬉しいんです」
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて、新吉が父親の袖を引いた。
「……父さん。そんなに一度に言わなくても」
「何だい。お前が言わないから、代わりに言ってやってるんだろう」
「俺は……」
新吉は千を見た。
けれど、言葉が続かなかった。
千も、顔を上げられなかった。
頬が熱い。
でも、嫌ではなかった。
むしろ、胸の奥に、これまで知らなかった気持ちが広がっていた。
新吉と一緒に、旅をする。
江戸の町を歩く。
見たことのない橋を、自分の目で見る。
知らない土地で、知らない人の話を聞く。
その隣に、新吉がいる。
そう考えると、胸がいっぱいになった。
「……少し、考えさせてください」
千は、ようやくそう言った。
行商人は穏やかに頷いた。
「もちろんですよ。急ぐ話じゃありませんから」
喜助も頷いた。
「まずは、ゆっくりしていってください。何日かこちらで商いをなさるんでしょう?」
「ええ。このあたりの宿場を回ろうと思っていましてね。よろしければ、数日、こちらに泊めていただけませんか」
「もちろんさ。部屋は空いてるよ」
おきぬが答えた。
「せっかく来たんだ。ゆっくりしていきな」
行商人は、ほっとしたように笑った。
「ありがとうございます。では、しばらく厄介になります」
新吉が、そっと千のほうを見た。
千も、ほんの一瞬だけ目を合わせた。
二人とも、まだ赤い顔をしていた。
*
その日の夕方、宿にはいつもの賑わいが戻っていた。
客たちの膳を運ぶ咲。帳面を確かめる次一。台所で味噌汁の鍋を見ているおきぬ。
喜助は、行商人からこのあたりの商いの様子を聞いていた。
「伊勢から戻る道は、どうでした?」
「ええ、雨に降られましてね。荷を濡らさないようにするのが大変でしたよ」
「この時期は、天気が変わりやすいからねえ」
そんな話の合間に、行商人は商いのことを話した。
どこで本が売れたか。どんな読み物を求める客が多かったか。これからどの町へ向かうつもりなのか。
次一も興味深そうに耳を傾け、時折、品物の運び方や仕入れについて尋ねた。
新吉は父親のそばに座っていたが、話が途切れると、千のほうを見た。
千は、夕餉の支度を手伝いながら、その視線に気づいていた。
気づくたびに、胸が小さく跳ねる。
けれど、今は話しかけることもできない。
新吉も同じなのか、目が合うと、すぐに父親の話へ顔を戻した。
夕餉が終わるころ、行商人が言った。
「明日は、この近くの町へ行ってみようと思います。新吉にも、品物を売るところを見せてやりたいんでね」
「そうですか。道中、お気をつけて」
喜助が答える。
「夕方には戻るつもりです。しばらくは、この宿を拠点にさせてもらいますよ」
「ええ、どうぞ」
おきぬは空いた膳を重ねながら笑った。
「うちは逃げないから、安心して商いをしておいで」
行商人は声を立てて笑った。
新吉も、つられて笑った。
千はその声を聞きながら、明日も新吉がこの宿にいるのだと思った。
そう考えると、今夜は少しだけ、落ち着いて眠れそうな気がした。
*
夜。
客たちが休み、宿の中が静かになると、千は両親のいる部屋を訪ねた。
「おっとう、おっかぁ。今、いい?」
喜助が顔を上げた。
「どうした、千」
おきぬも、手元の針仕事を置いた。
千は二人の前に座った。
昼間のことを思い出すと、また頬が熱くなる。
それでも、今日はちゃんと話したかった。
「……昼間の話なんだけど」
喜助とおきぬは、黙って娘を見ていた。
「私、新吉さんと……旅をしてみたい」
口にした途端、胸がどきりとした。
「江戸にも行ってみたいし、ほかの町も見てみたい。今まで、お客さんから聞いた話を絵に描いてきたでしょう? でも、実際にはどんなところなのか、自分の目で見てみたいの」
千は、膝の上で手を握った。
「それに……新吉さんと一緒に、いろんなところを歩いてみたい」
言い終えると、部屋は静かになった。
外から、風が戸を撫でる音が聞こえた。
喜助は、しばらく娘を見つめていた。
「……千は、旅籠を離れることになるかもしれないんだぞ」
「うん」
「ここで暮らすのとは、ずいぶん違う。いつも同じ家に帰ってこられるとは限らない」
「うん。分かってる」
千は、少しだけ顔を上げた。
「でも、見てみたいの。新吉さんが見てきた町も、これから行く町も。私、知らないところの話を聞くのが好き。絵を描くのも好き。でも、今は……自分で見て、描いてみたい」
おきぬは、娘の言葉を静かに聞いていた。
「それに、新吉さんがいなかったら、こんなふうに思わなかったと思う」
千は、恥ずかしそうに笑った。
「……会えないと、寂しいんだもの」
おきぬの目元が、ふっと柔らかくなった。
喜助は、膝の上に置いていた手をゆっくりと組み直した。
「そうか」
それだけ言って、少し考えた。
「お前が本当にそうしたいと思うなら、父さんは、ちゃんと話を聞こうと思う」
千は顔を上げた。
「おっとう……」
「ただ、旅は絵に描くほど楽しいことばかりじゃない。苦しいこともあるだろう。次一だって、最初は慣れないことが多かった」
喜助は、少し離れたところにいるおきぬを見た。
「おきぬは、どう思う?」
おきぬは針仕事を脇へ置き、千の隣に座った。
「私はね、千がここに残りたいと言うなら、それもいいと思ってたよ」
娘の手を取る。
「でも、外へ出てみたいと言うなら、それも千の人生だろう?」
千は、母の手を握り返した。
「ただね」
おきぬは、少しだけ声を和らげた。
「新吉さんが好きだから一緒に行きたい。それは、きっと本当なんだろうね。でも、旅の暮らしそのものも、よく考えておくんだよ。好きな人と一緒でも、雨の日はあるし、腹が減る日もある。思うようにいかなくて、喧嘩する日だってあるだろうさ」
「……うん」
「それでも、一緒に歩いてみたいと思うのなら、ゆっくり話を進めればいい」
千は、何度も頷いた。
喜助は、娘の顔を見ていた。
小さなころ、初めて筆を持った千。
関宿の道を描き、店を描き、旅人から聞いた知らない町を描いてきた。
その千が今、自分の足で外へ出てみたいと言っている。
「千」
「はい」
「行商人さんがこちらにいる間に、父さんも、もう少し話をしてみる。どんな暮らしになるのか、よく聞いてから考えような」
「……うん。ありがとう、おっとう」
千は、深く頭を下げた。
おきぬが、娘の肩をそっと抱いた。
「それまでは、いつもどおり働くんだよ」
「うん」
「絵も描いていい。でも、寝るのが遅くなりすぎないようにね」
「……はあい」
いつもの調子で返事をすると、三人の間に、少しだけ笑いがこぼれた。
部屋の外では、夜風が庭の木々を揺らしていた。
千は自分の部屋へ戻ると、宿帳のそばに置いていた絵を広げた。
江戸の橋。川を行く船。紙を売る店。
まだ見ぬ町が、いくつも紙の上に並んでいる。
明日になれば、新吉に絵を見せられる。
そう思うと、胸の奥が温かくなった。
千は筆を取り、空いている場所に、小さな道を描き始めた。
その道がどこへ続くのか、まだ分からない。
けれど今夜は、その先に誰かがいるような気がした。




