第六話 ひと月先
翌朝、行商人は早くから出立の支度をしていた。
風呂敷包みを肩に担ぎ、荷の紐を確かめる。隣では、新吉が父親の手伝いをしていた。
「もう行くのかい?」
おきぬが、包みを手に出てきた。
「ええ。まずは伊勢まで行こうと思いましてね。そのあと、こちらへ戻るつもりです」
「そうかい。道中、気をつけなよ」
「ありがとうございます。また、寄らせてもらいますよ」
行商人は笑った。
「伊勢でひと仕事して、またひと月ほどしたら、このあたりを通ります。そのときは、もう一晩、厄介になります」
「そりゃあ、待ってるよ」
おきぬは、包みを差し出した。
「いつものおいなりさん。道中で食べな」
「いやあ、ありがたい。これが楽しみでね」
男が受け取ると、新吉も頭を下げた。
「お世話になりました」
「新吉も、道中気をつけるんだよ」
「はい」
次一が荷の具合を確かめ、喜助が街道の先へ目をやった。
「伊勢までなら、これから日が高くなる。急がずにな」
「ええ。では、また」
行商人が歩き出す。
新吉も、その後ろに続いた。
街道へ出る手前で、新吉は一度だけ振り返った。
宿の入り口に、千が立っていた。
目が合う。
新吉は少し照れたように笑い、頭を下げた。
千も、小さく頭を下げた。
それだけだった。
親子の姿は、やがて街道を行き交う人々の間に紛れて見えなくなった。
千は、しばらくその場に立っていた。
「千、そこにいると風邪をひくよ」
咲に声をかけられ、千ははっとした。
「……うん」
返事をして、宿の中へ戻る。
帳場では、喜助が次の客のために部屋の支度を確かめていた。おきぬは朝の膳を片づけ、次一は届いた荷の帳面を開いている。
いつもの朝だった。
千も、いつものように手伝いを始めた。
けれど、何をしていても、ふとした拍子に新吉の顔が浮かんだ。
紙を覗き込んでいた顔。
旅の話をするときの声。
自分の絵を見ながら、「俺も、何か描いてみようかな」と言ったこと。
思い出すと、胸のあたりがほんのり温かくなる。
なのに、もういないのだと思うと、少し寂しかった。
千は、手にしていた布を畳み直した。
きちんと畳んであるのに、また端がずれてしまう。
「……あれ?」
自分でも、どうしてそんなことをしているのか分からなかった。
*
夕方。
西の空が赤く染まり、表の格子戸から差し込む光が、土間の端を細く照らしていた。
客たちの夕餉の支度もひと段落し、おきぬは帳場の隅で、明日の仕込みに使う野菜を選り分けていた。
そこへ、千がやってきた。
「おっかぁ」
「ん?」
おきぬは手を止めずに返事をした。
「ちょっと、私、変なの」
その声に、おきぬはようやく顔を上げた。
「なんだい、急に」
千は母の隣に腰を下ろした。
しばらく黙っていたが、やがて、膝の上で指を組んだ。
「……新吉さんのことなんだけど」
おきぬの手が、一瞬だけ止まった。
「新吉?」
「うん」
千は、足元に視線を落とした。
「いなくなったら、なんだか寂しくて」
「うん」
「でもね、昨日の夜に話したこととか、思い出すと、嬉しくなるの」
言葉を探すように、千はゆっくり話した。
「また会えるって思うと、嬉しい。でも、ひと月も先なんだって思うと……なんだか、長いなって」
最後のほうは、声が小さくなった。
「こんなこと、今までなかったの。私、どうしちゃったんだろう」
おきぬは、手元の野菜を籠に置いた。
それから千の顔を覗き込んだ。
「それはぁ……」
わざと少し間を置く。
千が、不安そうに母を見た。
「……恋だね」
「こ、恋!?」
千の声が裏返った。
おきぬは、とうとう笑い出した。
「そんなに驚くことないだろう」
「だって、私……そんなつもりじゃ」
「どんなつもりも何も、誰かのことを考えると嬉しくなったり、いなくなると寂しくなったりするんだろう?」
千は口をつぐんだ。
「……うん」
「そりゃあ、その人が気になってるってことさ」
おきぬは、娘の髪をそっと撫でた。
「変なことじゃないよ」
千は、まだ戸惑った顔をしていた。
「でも、私、新吉さんのこと、そんなに知らないよ」
「これから知っていけばいいじゃないか」
「これから……?」
「またひと月したら来るんだろう?」
おきぬは、何でもないことのように言った。
「そのときに、また話せばいい。どんな本を読んでるのかとか、どんな町を見てきたのかとかさ」
千は、少しだけ顔を上げた。
「……来てくれるかな」
「来ると言ってたんだろう?」
「うん。おっかぁ、ひと月って、長いね」
「そうだねえ」
おきぬは笑った。
「でも、待ってる間にも、やることはいっぱいあるよ。絵だって描けるし、宿の手伝いだってある」
「……うん」
「それに、次に会ったとき、話したいことがたくさんあったほうがいいだろう?」
千は、しばらく考えていた。
やがて、こくりと頷いた。
「私、江戸の絵をもっと描いてみる」
「そうかい」
「新吉さんに、見せたいから」
言ってから、千ははっと口元を押さえた。
おきぬは、笑いをこらえるように唇を結んだ。
「……何だい?」
「ううん。何でもないよ」
「おっかぁ、笑ってる!」
「笑ってないよ」
「笑ってるじゃない!」
二人の声が、夕方の帳場に弾んだ。
少し離れたところで、咲が振り返った。
「何の話?」
「何でもない!」
千は慌てて立ち上がった。
その顔が赤いのを見て、咲は不思議そうに首を傾げた。
おきぬは何も言わず、また野菜を選り分け始めた。
千は自分の部屋へ戻る前に、宿帳の置かれた棚の前で足を止めた。
あの江戸の絵は、まだ挟んだままだ。
千はそっと宿帳を開いた。
川と橋と、黒い船。
その隅には、昨夜描き足した小さな人影が二つある。
千は、その絵をしばらく眺めていた。
それから筆を取り、新しい紙を一枚、そばに置いた。
次に新吉が来たとき、見せたいものがある。
そう思うと、胸の奥がまた、ほんのり温かくなった。
窓の外では、日が暮れかけていた。
街道の向こうから、旅人の声が聞こえる。
今日もまた、誰かがこの宿に泊まり、明日には旅立っていく。
けれど千は、初めて、旅立った人が戻ってくる日を待っていた。




