第五話 宿帳の絵
昼を少し過ぎたころ、街道の向こうから、見覚えのある男が歩いてきた。
肩には、風呂敷包みを担いでいる。少し後ろには、男と同じように荷を背負った少年が続いていた。
「あら、いらっしゃい」
帳場にいたおきぬが顔を上げた。
「おお、久しぶりですな」
本の行商人は、日に焼けた顔をほころばせた。
「このあたりを通るのは久しぶりでして。今日は息子も一緒なんです。そろそろ商いの道を覚えさせようと思いましてね」
「まあ、そうかい。大きくなったねえ」
おきぬは少年に目を向けた。
少年は少し照れたように頭を下げた。
「新吉と申します」
「そうかい、新吉。長旅だったろう。荷物を置いて、まずは休みな」
奥から咲も出てきた。
次一が二人の荷を受け取り、空いている部屋へ案内する。
行商人は、宿の中を懐かしそうに見回した。
「いやあ、変わらないねえ」
「そうかい?」
「ええ。ここへ来ると、ほっとするんですよ」
おきぬは笑った。
「そう言ってもらえるなら、ありがたいね」
しばらくして、荷を置いた親子が帳場のそばへ戻ってきた。
千は縁側に近いところで、紙に向かっていた。
このあいだ、江戸から来た旅人の話を聞いて描いた絵だった。
川にかかる橋。橋の向こうに並ぶ店。人の行き交う道。その端には、黒い船も小さく描き添えてある。
行商人が、ふと足を止めた。
「おや。これは何を描いているんだい?」
千が顔を上げた。
「あ、江戸です。前に来たお客さんから、いろいろお話を聞いたんです」
「ほう。江戸か」
行商人は、千の隣に腰を下ろした。
「よく描けてるじゃないか。江戸には、こんな橋がいくつもあるよ。川沿いには荷を運ぶ船が着いて、朝から人が行き交う。店先には品物が並んで、威勢のいい声が飛び交うんだ」
「そんなに賑やかなんですか?」
「そりゃあもう。わしも商いで何度も行っているが、行くたびに人の多さに驚くよ」
千は絵を見つめた。
「……もっと、たくさん描けそうですね」
「ははは。そうだねえ」
行商人は、川のそばに描かれた小さな船を指した。
「こういう船も、もっと行き交っているよ。荷を積んでね。お前さんの絵を見ていたら、わしも江戸へ行きたくなってきた」
「おじさん、何度も行っているんでしょう?」
「何度行っても、また行きたくなるもんさ」
その言葉に、千は嬉しそうに笑った。
隣で聞いていた新吉も、絵を覗き込んだ。
「この大きな船が、黒船?」
「うん。煙を出して、蒸気の力で動くんだって」
「帆がなくても?」
「そう。私も、どうやって動くのかよく分からないんだけど……」
千は少し困ったように笑った。
「でも、見てみたいな」
新吉は絵から目を離さなかった。
「俺も見てみたい」
そう言ってから、千のほうを見た。
思いがけず目が合い、二人はそろって視線をそらした。
行商人は、その様子を横目で見ていた。
「なるほどねえ。こういう子に嫁に来てもらいたいなぁ」
「父さん!」
新吉が声を上げた。
「なんだい。思ったことを言っただけじゃないか」
「こんなところで、何を言ってるんだよ」
新吉の耳が赤くなった。
千は筆を持ったまま、じっと紙を見ていた。
「……私、まだ、そんなこと」
「おや、千。聞こえてたのかい?」
少し離れたところから、おきぬが笑いを含んだ声をかけた。
「おっかさん!」
千は顔を上げた。
行商人は声を立てて笑った。
「いやいや、すまない。年寄りの戯れ言だよ」
そう言いながらも、目は楽しそうだった。
新吉は父親を困ったように見たあと、もう一度、千の絵を見た。
「……この橋、どのあたりにあるんだろう」
千は、ほっとしたように顔を上げた。
「それは、まだ分からないの。お客さんに、もっと聞けばよかったな」
「今度、江戸から来た人がいたら、聞いてみればいいよ」
「うん」
千は小さく頷いた。
その返事を聞いて、新吉も笑った。
夕餉の席では、行商人が持ってきた本の話が出た。
江戸で売れている本のこと。旅先で出会った珍しい読み物のこと。新吉は父親の話を聞きながら、ときおり千のほうを見た。
千も、江戸の話になると、いつもより熱心に耳を傾けた。
やがて食事が終わり、客たちがそれぞれの部屋へ戻っていった。
夜も更け、宿の中は静かになっていた。
表の戸口から、ときおり街道を通る人の足音が聞こえてくる。遠くで犬が一声吠え、それきり、また虫の音だけになった。
千は、灯明のそばに座っていた。
昼間の江戸の絵を広げ、行商人の話を思い返しながら、川沿いに小さな船を描き足している。
江戸には、もっとたくさんの橋があるという。
朝から人が行き交い、荷を積んだ船が川を上り下りし、店先には品物が並ぶ。
話を聞いているだけで、知らない町が少しずつ近くなる気がした。
筆先を止め、千は描きかけの船を眺めた。
そのとき、廊下の板が小さく鳴った。
「……まだ、起きてる?」
顔を上げると、新吉が立っていた。
「うん。どうしたの?」
新吉は部屋の入り口で、少し困ったように頭を掻いた。
「昼間のことなんだけど」
「昼間?」
「親父が、変なことを言っただろう。あの……嫁に来てもらいたいとか」
言いながら、新吉はますます気まずそうな顔になった。
「すまなかった。親父、思ったことをすぐ口にするんだ。悪気はないんだけど」
千は目を丸くしたあと、小さく笑った。
「そんなこと、気にしてないよ」
「本当に?」
「うん。おじさん、いつもあんなふうに冗談を言うの?」
「……まあ、だいたい」
「ふふっ」
千が笑うと、新吉もようやく肩の力を抜いた。
廊下の向こうを気にしながら、新吉は尋ねた。
「それ、何を描いてるんだ?」
「江戸。昼間、おじさんに聞いた話を思い出してたの」
「親父、江戸には何度も行ってるからな」
「うん。さっき、橋がたくさんあるって教えてくれたでしょう?」
千は紙を少し横へずらした。
「ここが川で、ここに橋があって……。でも、どんなお店が並んでるのか、まだよく分からないんだ」
新吉は、灯明のそばへ少し近づいた。
「江戸の店は、いろいろあるよ。親父が本を仕入れに行くところの近くには、紙を売る店もあるし、筆や墨を扱う店もある」
「紙も?」
「うん。大きさもいろいろあってさ。店の奥に積み上げてあるんだ」
「へえ……」
千の目が輝いた。
「紙を売るお店、描いてみたいな」
「紙を?」
「うん。どんなふうに並べてあるのかなって。お店の人は、どんな顔をしてるのかなって」
新吉は、しばらく千の絵を見ていた。
「……千は、何でも絵にするんだな」
「そうかな」
「昼間も、船の話を聞いて、すぐ描き始めただろう。俺だったら、話を聞いて終わりだと思う」
千は筆を持ち直した。
「忘れちゃうのが、もったいないんだよ。お話を聞いていると、頭の中に景色が浮かぶでしょう? それを描いておくと、あとでまた、そのお話を思い出せるから」
そう言って、千は紙の端に、小さな店を描いた。
新吉は、その手元をじっと見ていた。
「……俺も、何か描いてみようかな」
「新吉さんも?」
名前を呼ばれ、新吉は少しだけ目を見開いた。
「うん。俺、旅先で見たものを、あまり覚えてないんだ。どこの宿に泊まったかは親父が覚えてるけど、途中の景色なんかは、帰るころには忘れてしまってる」
「じゃあ、今度から描いたらいいよ」
「絵なんて、うまく描けないよ」
「うまくなくてもいいんじゃない?」
千は顔を上げた。
「私は、見たとおりに描けないことも多いもの。でも、あとで見たら、そのときのことを思い出せるよ」
新吉は、紙の上の小さな船を見つめた。
「そっか」
それから二人は、旅先で見たものの話をした。
新吉は、宿場ごとに違う道の様子や、雨の日に荷物を濡らさないよう父親と走ったことを話した。千は、関宿の道を描いた紙を取り出し、どこから来たのか、どんな道を通ってきたのかと尋ねた。
話しているうちに、新吉の声から、最初のぎこちなさが消えていった。
千も、いつの間にか筆を置いていた。
絵のこと、旅のこと、本のこと。
昼間は父親の前で、互いにどこか落ち着かなかったのが嘘のようだった。
廊下の曲がり角で、おきぬが足を止めた。
水を取りに来たところだった。
灯明の向こうに、並んで座る二人の姿が見えた。
千が何かを話すと、新吉が笑う。
新吉が話すと、千は身を乗り出して聞いている。
おきぬは、しばらくその様子を眺めていた。
やがて、口元に小さな笑みが浮かんだ。
声をかけるのは、やめておこう。
そう思って、足音を立てないように廊下を戻った。
部屋へ帰る途中、ふと、遠い昔のことを思い出しかけた。
けれど、それがどんな夜だったのか、もうはっきりとは思い出せない。
ただ、夜の灯りの下で、誰かと話す声が聞こえる。
それだけで、なんだか家の中が温かくなるような気がした。
千は、まだ新吉と話していた。
灯明の火が、小さく揺れている。
広げた江戸の絵には、川と橋と、描きかけの店。
その隅に、千は新しく、小さな人影を二つ描き添えた。
今度は、話をする二人だった。




