第四話 見知らぬ町
その旅人がやってきたのは、昼下がりのことだった。
日差しは柔らかく、軒先では干していた手拭いが風に揺れていた。千は土間の端に腰を下ろし、紙の上に関宿の道筋を描いている。
この道をまっすぐ行けば、どこに店があるのか。どこで曲がれば、旅人が探している茶屋に着くのか。
尋ねられるたびに、千は少しずつ地図を書き足していた。
「ごめんください」
声がして、千は顔を上げた。
戸口に立っていたのは、四十を過ぎた頃の男だった。着物の裾には旅の埃がつき、肩に掛けた荷は大きい。疲れた顔をしていたが、目にはどこか落ち着いた様子があった。
「いらっしゃいませ」
咲が出迎える。
「今夜、一晩お願いできますかな」
「はい。お一人でいらっしゃいますか」
「ええ。江戸から参りましてね。しばらく歩き通しでした」
その言葉に、千の筆が止まった。
江戸。
話には何度も聞いている。大きな町で、店が並び、人が行き交い、橋もたくさんあるという。
けれど、千はまだ、その町を見たことがなかった。
男が荷を下ろすと、次一が声をかけた。
「江戸からですか。ずいぶん遠くからお越しですね」
「いやあ、道中は長いですな。けれど、街道を歩いていると、いろいろな土地の様子が見られる。商いをする身には、それも楽しみでして」
「お商売を?」
「小間物を扱っております。江戸で仕入れたものを、あちこちへ持っていくんですよ」
次一は興味を持った様子で、男の荷を見た。
「それは、後ほどお話を伺いたいものです」
「ええ、ぜひ」
男が座敷へ向かうと、千は紙を見下ろした。
関宿の道の先に、江戸を描くことはできるだろうか。
まだ見たことのない町を。
*
夕餉の膳を運ぶと、男は旅の疲れも忘れたように話し始めた。
江戸の店のこと。品物の値のこと。人が多く集まる場所では、朝から夕方まで声が絶えないこと。
次一は商いの話を聞き、おきぬは膳を下げながら相槌を打っていた。
千も、少し離れたところで耳を傾けていた。
「ところで、江戸では、このところ妙な話が持ちきりでしてね」
男が箸を置いた。
「妙な話?」
次一が尋ねる。
「黒船ですよ」
その言葉に、喜助が顔を上げた。
「黒船?」
「ええ。浦賀の沖に、異国の船がやってきたそうで」
男は声を少し落とした。
「私はその場を見たわけではありませんが、江戸でも、その話ばかりでした。実際に浦賀の方から戻った者に聞いたんです」
「どんな船だったんですか」
千が思わず尋ねた。
男は、千の顔を見た。
「おや。気になるかい」
「はい。黒い船なのでしょう?」
「そうだね。船体が黒くて、大きい。しかも、煙を吐いて進むというんですよ」
「煙を?」
千は目を丸くした。
「船は、風で進むものではないのですか」
「普通はそうだろう。ところが、その船は違うらしい。帆だけに頼らず、煙を吐きながら海を進む。見た者は、さぞ驚いたでしょうな」
男は、湯呑みに手を伸ばした。
「江戸では、瓦版にも船の絵が出ていたそうですよ。見たことのない形でね。大砲も積んでいるとか」
咲が、膳を持つ手を止めた。
「大砲まで……」
「ええ。幕府も浦賀の守りを固めているそうです。これからどうなるのか、誰にも分からないと」
しばらく、座敷は静かになった。
千の頭の中には、黒い船が浮かんでいた。
煙を吐く船。
風がなくても進む船。
それは、今まで知っている船とは、まるで違うものだった。
「ねえ、おじさん」
「なんだい」
「その船のこと、もう少し教えてもらえませんか」
男は、少し驚いた顔をした。
「私が聞いた話でよければね」
「はい」
「そうだねえ……船は大きく、横から見ると長い。上には高い柱が何本も立っていて、帆もあるらしい。けれど、煙突から煙が出て、船尾の方では水が泡立っていたという話だ」
千は、手元の紙を引き寄せた。
男の話を聞きながら、指で紙の上に線を引いてみる。
長い船体。高い柱。煙突。
まだ形にならない。
「千、何をしているんだい」
おきぬが覗き込んだ。
「船を描いてみようと思って」
「船を?」
「うん。江戸の人が見たものを、私も見てみたいから」
男は、嬉しそうに笑った。
「そりゃあ、面白いねえ。私も見たわけじゃないが、覚えている限り話してあげよう」
*
夕餉が済んだあとも、千は紙の前に座っていた。
男が話した船の形を描いては、首をかしげる。
煙突はどこに置けばいいのだろう。柱は何本あるのだろう。船の上には、どんな人たちが乗っているのだろう。
そこへ、咲が湯呑みを持ってきた。
「まだ描いているの?」
「うん。でも、難しいね」
「見たことがないんだものね」
「そうなの。だから、話を聞いて描くの」
千は筆を置いた。
「江戸もね、描いてみたいんだ」
「江戸を?」
「うん。どんな町なのか、どんな道があって、どんなお店が並んでいるのか。おじさんの話を聞いていたら、見てみたくなっちゃった」
咲は、千の紙を覗き込んだ。
そこには、まだ不格好な船が描かれていた。黒く塗られた船体の上に、細い柱と煙突。船尾には、千が考えながら描いた波の線がある。
「いいじゃない」
「ほんとう?」
「うん。少なくとも、私はこんな船を見たことがないもの」
千は、くすりと笑った。
「そうだよね。私もないもの」
姉妹は顔を見合わせた。
咲は湯呑みを置き、千の隣に腰を下ろした。
「江戸の町も、描けるといいね」
「うん。おじさんに、もっと話を聞いてみる」
「明日、出立する前に聞いてみたら?」
「そうする!」
千の声が、少し弾んだ。
*
翌朝、旅人は朝餉を済ませると、荷をまとめ始めた。
千は紙を抱えて、座敷へ向かった。
「あの、少しだけ、よろしいですか」
「おや、どうしたんだい」
千は、描きかけの船を見せた。
「昨日のお話を聞いて、描いてみたんです。でも、まだよく分からなくて」
男は紙を受け取り、しばらく眺めた。
「へえ。こいつは、よく描けているじゃないか」
「本当ですか」
「ああ。ただ、煙突はもう少し後ろにあったと聞いたな。それから、船の横には、窓のような穴がいくつもあって、そこから大砲を向けていたそうだ」
千は、すぐに筆を取った。
「ここですか?」
「そうそう。そんな具合だろうね」
男は笑いながら、紙の上を指さした。
「しかし、見たこともない船を、話だけで描くとはね。面白いことをする子だ」
「道案内の地図を描くのが好きなんです。知らない道でも、話を聞けば少し分かるでしょう? だから、町も描いてみたいんです」
「なるほどねえ」
男は、少し考えた。
「江戸の町なら、話せることはたくさんあるよ。大きな橋があって、その近くには店が並んでいる。人通りの多い道もあれば、静かな横丁もある。荷を運ぶ人が行き交うところもあってね」
千の目が輝いた。
「その橋は、どんな形ですか」
「そうだね……川に架かっていて、両側から人が渡れる。橋のたもとには、物を売る者もいる」
「お店は、どんなお店ですか」
「小間物屋もあれば、食べ物を売る店もある。人が多いところでは、呼び込みの声が絶えないよ」
千は、男の話を一つずつ聞きながら、紙に線を引いた。
川を描き、橋を描き、橋のたもとに小さな店を並べる。人の姿も、いくつか描き加えた。
「ここを渡ると、どこへ行くんですか」
「そうだねえ。道をまっすぐ行けば、賑やかな通りに出るよ」
「では、ここから曲がる道もあるんですね」
「あるとも。江戸は広いからね」
男は、千が描く紙を覗き込みながら、楽しそうに話し続けた。
やがて、千の紙の上に、見知らぬ町が広がっていった。
もちろん、本当の江戸と同じではない。
男が見た場所と、千が思い描いた場所が、少しずつ重なってできた町だった。
それでも、千には、その町を歩く人々の声が聞こえるような気がした。
「ありがとう、おじさん」
千は、紙を両手で持ち上げた。
「これで、江戸のことを少し知ることができたよ」
「いやあ、こちらこそ面白かった。自分の話が、こんなふうに絵になるとは思わなかったからね」
男は荷を背負い、戸口へ向かった。
「また江戸の話を持ってきてやろう」
「ほんとう?」
「ああ。今度は、もっとよく覚えておくよ」
千は、何度も頭を下げた。
*
旅人が出立したあと、千は紙を帳場へ持っていった。
喜助が宿帳を閉じるところだった。
「父ちゃん、これ、見て」
「何だい」
「江戸の町。旅人のおじさんに話を聞いて描いたの」
喜助は、紙を受け取った。
川に架かった橋。その向こうに続く道。小さな店。行き交う人々。そして、隅には黒い船が描かれている。
喜助は、しばらく黙って眺めていた。
「これは、面白いな」
「ほんとう?」
「ああ。見たことのない場所を、話を聞いて描いたんだな」
「うん」
千は、嬉しそうにうなずいた。
喜助は紙を返した。
「大事に取っておくといい」
「うん!」
千は、その紙をそっと畳んだ。
やがて、宿帳を開いていた喜助が、ふと思い出したように言った。
「千。その絵も、宿帳に挟んでおいたらどうだ」
「宿帳に?」
「ああ。昨日の旅人が、江戸から来たことも分かる。話を聞いて描いた絵だと書いておけば、あとで見た者にも伝わるだろう」
千は、紙を見下ろした。
自分が描いた、見知らぬ町。
それが、いつか誰かの目に触れるかもしれない。
「そうする!」
千は、宿帳の頁をめくった。
旅人の名前が記された頁の隣に、紙をそっと挟み込む。
関宿の道を描いた地図とは違う。
こちらは、まだ見たことのない町の絵だ。
けれど、どちらも誰かの話を聞いて描いたものだった。
帳場の外では、咲が次の客を迎える支度をしている。次一は、仕入れの帳面を確かめていた。
喜助は再び筆を取り、宿帳に短い言葉を書き添えた。
江戸より来た旅人。
黒船の話。
千が描いた、見知らぬ町。
遠い江戸で起きたことが、ひとつの絵になって、この宿に残った。
その日も、街道には旅人の姿が絶えなかった。




