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宿帳  作者: 灯野 しおん
第二章 次一と咲

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第四話 見知らぬ町

 その旅人がやってきたのは、昼下がりのことだった。


 日差しは柔らかく、軒先では干していた手拭いが風に揺れていた。千は土間の端に腰を下ろし、紙の上に関宿の道筋を描いている。


 この道をまっすぐ行けば、どこに店があるのか。どこで曲がれば、旅人が探している茶屋に着くのか。


 尋ねられるたびに、千は少しずつ地図を書き足していた。


「ごめんください」


 声がして、千は顔を上げた。


 戸口に立っていたのは、四十を過ぎた頃の男だった。着物の裾には旅の埃がつき、肩に掛けた荷は大きい。疲れた顔をしていたが、目にはどこか落ち着いた様子があった。


「いらっしゃいませ」


 咲が出迎える。


「今夜、一晩お願いできますかな」


「はい。お一人でいらっしゃいますか」


「ええ。江戸から参りましてね。しばらく歩き通しでした」


 その言葉に、千の筆が止まった。


 江戸。


 話には何度も聞いている。大きな町で、店が並び、人が行き交い、橋もたくさんあるという。


 けれど、千はまだ、その町を見たことがなかった。


 男が荷を下ろすと、次一が声をかけた。


「江戸からですか。ずいぶん遠くからお越しですね」


「いやあ、道中は長いですな。けれど、街道を歩いていると、いろいろな土地の様子が見られる。商いをする身には、それも楽しみでして」


「お商売を?」


「小間物を扱っております。江戸で仕入れたものを、あちこちへ持っていくんですよ」


 次一は興味を持った様子で、男の荷を見た。


「それは、後ほどお話を伺いたいものです」


「ええ、ぜひ」


 男が座敷へ向かうと、千は紙を見下ろした。


 関宿の道の先に、江戸を描くことはできるだろうか。


 まだ見たことのない町を。


     *


 夕餉の膳を運ぶと、男は旅の疲れも忘れたように話し始めた。


 江戸の店のこと。品物の値のこと。人が多く集まる場所では、朝から夕方まで声が絶えないこと。


 次一は商いの話を聞き、おきぬは膳を下げながら相槌を打っていた。


 千も、少し離れたところで耳を傾けていた。


「ところで、江戸では、このところ妙な話が持ちきりでしてね」


 男が箸を置いた。


「妙な話?」


 次一が尋ねる。


「黒船ですよ」


 その言葉に、喜助が顔を上げた。


「黒船?」


「ええ。浦賀の沖に、異国の船がやってきたそうで」


 男は声を少し落とした。


「私はその場を見たわけではありませんが、江戸でも、その話ばかりでした。実際に浦賀の方から戻った者に聞いたんです」


「どんな船だったんですか」


 千が思わず尋ねた。


 男は、千の顔を見た。


「おや。気になるかい」


「はい。黒い船なのでしょう?」


「そうだね。船体が黒くて、大きい。しかも、煙を吐いて進むというんですよ」


「煙を?」


 千は目を丸くした。


「船は、風で進むものではないのですか」


「普通はそうだろう。ところが、その船は違うらしい。帆だけに頼らず、煙を吐きながら海を進む。見た者は、さぞ驚いたでしょうな」


 男は、湯呑みに手を伸ばした。


「江戸では、瓦版にも船の絵が出ていたそうですよ。見たことのない形でね。大砲も積んでいるとか」


 咲が、膳を持つ手を止めた。


「大砲まで……」


「ええ。幕府も浦賀の守りを固めているそうです。これからどうなるのか、誰にも分からないと」


 しばらく、座敷は静かになった。


 千の頭の中には、黒い船が浮かんでいた。


 煙を吐く船。


 風がなくても進む船。


 それは、今まで知っている船とは、まるで違うものだった。


「ねえ、おじさん」


「なんだい」


「その船のこと、もう少し教えてもらえませんか」


 男は、少し驚いた顔をした。


「私が聞いた話でよければね」


「はい」


「そうだねえ……船は大きく、横から見ると長い。上には高い柱が何本も立っていて、帆もあるらしい。けれど、煙突から煙が出て、船尾の方では水が泡立っていたという話だ」


 千は、手元の紙を引き寄せた。


 男の話を聞きながら、指で紙の上に線を引いてみる。


 長い船体。高い柱。煙突。


 まだ形にならない。


「千、何をしているんだい」


 おきぬが覗き込んだ。


「船を描いてみようと思って」


「船を?」


「うん。江戸の人が見たものを、私も見てみたいから」


 男は、嬉しそうに笑った。


「そりゃあ、面白いねえ。私も見たわけじゃないが、覚えている限り話してあげよう」


     *


 夕餉が済んだあとも、千は紙の前に座っていた。


 男が話した船の形を描いては、首をかしげる。


 煙突はどこに置けばいいのだろう。柱は何本あるのだろう。船の上には、どんな人たちが乗っているのだろう。


 そこへ、咲が湯呑みを持ってきた。


「まだ描いているの?」


「うん。でも、難しいね」


「見たことがないんだものね」


「そうなの。だから、話を聞いて描くの」


 千は筆を置いた。


「江戸もね、描いてみたいんだ」


「江戸を?」


「うん。どんな町なのか、どんな道があって、どんなお店が並んでいるのか。おじさんの話を聞いていたら、見てみたくなっちゃった」


 咲は、千の紙を覗き込んだ。


 そこには、まだ不格好な船が描かれていた。黒く塗られた船体の上に、細い柱と煙突。船尾には、千が考えながら描いた波の線がある。


「いいじゃない」


「ほんとう?」


「うん。少なくとも、私はこんな船を見たことがないもの」


 千は、くすりと笑った。


「そうだよね。私もないもの」


 姉妹は顔を見合わせた。


 咲は湯呑みを置き、千の隣に腰を下ろした。


「江戸の町も、描けるといいね」


「うん。おじさんに、もっと話を聞いてみる」


「明日、出立する前に聞いてみたら?」


「そうする!」


 千の声が、少し弾んだ。


     *


 翌朝、旅人は朝餉を済ませると、荷をまとめ始めた。


 千は紙を抱えて、座敷へ向かった。


「あの、少しだけ、よろしいですか」


「おや、どうしたんだい」


 千は、描きかけの船を見せた。


「昨日のお話を聞いて、描いてみたんです。でも、まだよく分からなくて」


 男は紙を受け取り、しばらく眺めた。


「へえ。こいつは、よく描けているじゃないか」


「本当ですか」


「ああ。ただ、煙突はもう少し後ろにあったと聞いたな。それから、船の横には、窓のような穴がいくつもあって、そこから大砲を向けていたそうだ」


 千は、すぐに筆を取った。


「ここですか?」


「そうそう。そんな具合だろうね」


 男は笑いながら、紙の上を指さした。


「しかし、見たこともない船を、話だけで描くとはね。面白いことをする子だ」


「道案内の地図を描くのが好きなんです。知らない道でも、話を聞けば少し分かるでしょう? だから、町も描いてみたいんです」


「なるほどねえ」


 男は、少し考えた。


「江戸の町なら、話せることはたくさんあるよ。大きな橋があって、その近くには店が並んでいる。人通りの多い道もあれば、静かな横丁もある。荷を運ぶ人が行き交うところもあってね」


 千の目が輝いた。


「その橋は、どんな形ですか」


「そうだね……川に架かっていて、両側から人が渡れる。橋のたもとには、物を売る者もいる」


「お店は、どんなお店ですか」


「小間物屋もあれば、食べ物を売る店もある。人が多いところでは、呼び込みの声が絶えないよ」


 千は、男の話を一つずつ聞きながら、紙に線を引いた。


 川を描き、橋を描き、橋のたもとに小さな店を並べる。人の姿も、いくつか描き加えた。


「ここを渡ると、どこへ行くんですか」


「そうだねえ。道をまっすぐ行けば、賑やかな通りに出るよ」


「では、ここから曲がる道もあるんですね」


「あるとも。江戸は広いからね」


 男は、千が描く紙を覗き込みながら、楽しそうに話し続けた。


 やがて、千の紙の上に、見知らぬ町が広がっていった。


 もちろん、本当の江戸と同じではない。


 男が見た場所と、千が思い描いた場所が、少しずつ重なってできた町だった。


 それでも、千には、その町を歩く人々の声が聞こえるような気がした。


「ありがとう、おじさん」


 千は、紙を両手で持ち上げた。


「これで、江戸のことを少し知ることができたよ」


「いやあ、こちらこそ面白かった。自分の話が、こんなふうに絵になるとは思わなかったからね」


 男は荷を背負い、戸口へ向かった。


「また江戸の話を持ってきてやろう」


「ほんとう?」


「ああ。今度は、もっとよく覚えておくよ」


 千は、何度も頭を下げた。


     *


 旅人が出立したあと、千は紙を帳場へ持っていった。


 喜助が宿帳を閉じるところだった。


「父ちゃん、これ、見て」


「何だい」


「江戸の町。旅人のおじさんに話を聞いて描いたの」


 喜助は、紙を受け取った。


 川に架かった橋。その向こうに続く道。小さな店。行き交う人々。そして、隅には黒い船が描かれている。


 喜助は、しばらく黙って眺めていた。


「これは、面白いな」


「ほんとう?」


「ああ。見たことのない場所を、話を聞いて描いたんだな」


「うん」


 千は、嬉しそうにうなずいた。


 喜助は紙を返した。


「大事に取っておくといい」


「うん!」


 千は、その紙をそっと畳んだ。


 やがて、宿帳を開いていた喜助が、ふと思い出したように言った。


「千。その絵も、宿帳に挟んでおいたらどうだ」


「宿帳に?」


「ああ。昨日の旅人が、江戸から来たことも分かる。話を聞いて描いた絵だと書いておけば、あとで見た者にも伝わるだろう」


 千は、紙を見下ろした。


 自分が描いた、見知らぬ町。


 それが、いつか誰かの目に触れるかもしれない。


「そうする!」


 千は、宿帳の頁をめくった。


 旅人の名前が記された頁の隣に、紙をそっと挟み込む。


 関宿の道を描いた地図とは違う。


 こちらは、まだ見たことのない町の絵だ。


 けれど、どちらも誰かの話を聞いて描いたものだった。


 帳場の外では、咲が次の客を迎える支度をしている。次一は、仕入れの帳面を確かめていた。


 喜助は再び筆を取り、宿帳に短い言葉を書き添えた。


 江戸より来た旅人。


 黒船の話。


 千が描いた、見知らぬ町。


 遠い江戸で起きたことが、ひとつの絵になって、この宿に残った。


 その日も、街道には旅人の姿が絶えなかった。

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