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宿帳  作者: 灯野 しおん
第二章 次一と咲

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第三話 街道の噂

 昼を過ぎても、風が冷たかった。


 街道を行く人々は、笠を深くかぶり、襟元を押さえながら歩いている。軒先に吊るした暖簾が、風にあおられてぱたぱたと鳴った。


 咲は土間の隅で、朝に使った膳を拭いていた。


「今日は、風が強いねえ」


 台所から、おきぬが言った。


「そうだね。朝より冷たくなった気がする」


「こんな日は、早めに宿を探す人もいるだろうさ。夕餉の支度を少し多めにしておこうかね」


 咲がうなずいたとき、表から足音が聞こえた。


「ごめんください」


 戸口に立っていたのは、二人連れの男だった。


 一人は年かさで、肩に大きな荷を背負っている。もう一人は少し若く、道中でついた泥が草鞋にこびりついていた。


「いらっしゃいませ」


 咲が迎えると、年かさの男がほっと息をついた。


「今夜、二人泊めてもらえますかな」


「はい。どうぞ、お入りください」


 次一が出てきて、男たちの荷を受け取った。


「ずいぶん歩かれたようですね」


「ええ。亀山の方から来ましてね。途中で風が強くなってしまった」


「それは大変でしたね。お部屋へご案内します」


 次一が先に立ち、咲は二人の後ろからついていった。


 若い方の男が、廊下を歩きながら声を落とした。


「この辺りは、まだ落ち着いている方なんでしょうか」


 年かさの男が、ちらりと相手を見た。


「何がだい」


「京の方です。道中、いろいろな話を聞きまして」


 次一は足を止めず、耳だけをそちらへ向けていた。


「人によって言うことが違うんです。世の中が変わるとか、これから先は何が起こるか分からないとか」


「旅をしていれば、いろいろな話が耳に入るものだよ」


 年かさの男は、それ以上は言わなかった。


 咲も、尋ねることはしなかった。


 ただ、客間へ案内する間、若い男が何度も窓の外を気にしているのが目に留まった。


     *


 夕餉の膳を運ぶ頃には、風は少し弱まっていた。


 煮物の湯気が座敷に広がり、焼いた魚の匂いが漂う。


 年かさの男は箸を手に取ると、ほっとしたように肩を下ろした。


「いやあ、温かい飯はありがたい」


「道中は寒かったでしょう」


 咲が言うと、男は大きくうなずいた。


「風が吹くと、歩くのも難儀でね。けれど、街道には人が多かったですよ」


「そうなんですか」


 次一が茶を置いた。


「いつもより多かったのでしょうか」


「どうだろうね。伊勢参りの人もいれば、商いの者もいる。皆、それぞれに行く先があるんだろうさ」


 男は煮物をひと口食べ、満足そうにうなずいた。


 若い男は、しばらく黙っていたが、やがて箸を置いた。


「私は、道中で京の話を聞きました」


 座敷にいた者たちが、そちらを向いた。


「都では、世の中のことを案じる人が増えているそうです。誰が何を決めるのか、これからどうなるのか。町の人たちも、いろいろ話しているとか」


 次一は、茶碗を置いた。


「商いにも、何か影響があるのでしょうか」


「それは、まだ分かりません。ただ、物の値が変わるかもしれないと話す人はいました」


 次一は、少し考え込んだ。


 商家にいた頃、値の変わり目を見誤れば、仕入れた品が売れなくなることもあると教えられた。荷を買うにも、売るにも、先を読むことが肝心だった。


 けれど、世の中の行く先を読むことは、商いの勘だけではどうにもならない。


「そうですか……」


 次一は、それだけ答えた。


 喜助は、座敷の端で静かに話を聞いていた。しばらくして、湯呑みを置く。


「まあ、先のことは分からん。明日の道がどうなっているかだって、朝になってみなければ分からんからな」


 年かさの男が笑った。


「そのとおりですな。まずは明日の道を歩けるよう、今夜はしっかり休まないと」


「それが一番だね」


 おきぬが、空いた皿を下げながら言った。


「せっかくの飯が冷めちまうよ。難しい話は、腹が満ちてからにおし」


 若い男が、思わず笑った。


「これは、失礼しました」


「謝ることはないさ。話したいことがあるなら話せばいい。ただ、食べるときは食べな」


 おきぬはそう言って、残っていた煮物を少し足した。


 座敷に、また箸の音が戻った。


     *


 いいね、夜、客たちが休んだあと。


 次一は帳場で、今日の勘定を確かめていた。


 喜助が隣に座り、宿帳の頁をめくっている。


「父さん」


「うん」


「先ほどの話ですが……これから、物の値が変わることもあるのでしょうか」


 喜助は、すぐには答えなかった。


 帳面の上に置いた指を、ゆっくりと動かす。


「あるかもしれんな」


「仕入れを、少し考えておいた方がよいでしょうか」


「何をどれだけ買うかは、いつも考えておくものだ。だが、噂だけで慌てて買い込むこともない」


「はい」


「客の話はよく聞いておけ。だが、聞いたことをそのまま信じるんじゃない。明日になれば、別の話をする者もいる」


 次一は、うなずいた。


 商家で教わったことと、似ているようで少し違う。


 ここでは、品物だけでなく、人の話も宿にやってくる。そして、旅人が去ったあとも、その話は家の中に残る。


「父さんは、こういう話をよく聞くんですか」


「旅籠をやっていればな。東から来る者も、西から来る者もいる。遠いところの話を、ここで聞くこともある」


 喜助は宿帳を閉じた。


「ただ、ここで暮らす者には、ここでやることがある」


 台所の方から、食器を重ねる音がした。


 おきぬが明日の支度をしているのだろう。咲もまだ起きているらしく、廊下を歩く足音が聞こえた。


「明日の米を見ておきます」


 次一が立ち上がると、喜助は「ああ」とだけ答えた。


     *


 翌朝、二人の旅人は早くに出立した。


 咲が包みを差し出すと、年かさの男は嬉しそうに受け取った。


「おや、これは」


「道中で召し上がってください。おいなりさんです」


「ありがたい。歩きながら食べるには、ちょうどいい」


 若い男も、包みを受け取って頭を下げた。


「昨夜は、いろいろと話を聞いていただいて、ありがとうございました」


「こちらこそ、お話を聞かせていただきました」


 次一が答えた。


 男は一瞬、何か言いかけたが、結局、軽く頭を下げて街道へ向かった。


 朝の風は、昨日より穏やかだった。


 二人の姿が人波にまぎれると、咲は戸口を閉めずに、そのまましばらく道を眺めていた。


「何か気になるかい」


 隣に来た次一が尋ねた。


「ううん。ただ、昨日の話を思い出していたの」


「世の中が変わる、という話ですか」


「そう。私たちの暮らしも、変わるのかな」


 次一は、すぐには答えなかった。


 街道の向こうから、荷を背負った男が歩いてくる。少し先では、店先を掃く音が聞こえた。


「変わることもあるでしょうね」


 次一は言った。


「けれど、朝になればお客さんは来るし、飯も炊かなくてはいけません」


 咲は笑った。


「そうだね。おっかあに、今日の米を見ておくように言われていたんだった」


「私も、仕入れの帳面を確かめます」


 二人は並んで、旅籠の中へ戻った。


 帳場では喜助が筆を取り、宿帳に昨夜の旅人の名を書き入れている。


 その隣に、次一が座った。


 台所では、おきぬが火を起こし、千は紙を探している。


 遠い京の話も、街道の噂も、まだ誰にも先のことは分からない。


 けれど、今日も旅人はやってくる。


 咲は箒を手に、表へ出た。


 朝の光が、東海道の道筋を照らしていた。


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