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宿帳  作者: 灯野 しおん
第二章 次一と咲

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第二話 賑やかになったねえ

 昼を少し過ぎた頃、街道から一人の旅人がやってきた。


 日に焼けた顔に、使い込んだ笠。肩には小さな荷を掛けている。


 男は旅籠の前で足を止め、軒先を見上げた。


「おや、ここの軒も変わらんな」


 そうつぶやいて、戸口をくぐった。


「ごめんください」


「はい、いらっしゃいませ」


 咲が奥から出てきた。


 男はその顔を見るなり、目を細めた。


「おお、咲ちゃんか。大きくなったねえ」


「まあ。お久しぶりです」


「前に来たときは、まだおっかさんの後ろに隠れていたじゃないか」


「そんなこともありましたね」


 咲は笑った。


 男は懐かしそうに土間を見渡した。以前と同じ柱、同じ上がり框。帳場の向こうには喜助が座っている。


 けれど、その隣に見知らぬ若い男がいた。


「……おや?」


 男の視線に気づき、次一が立ち上がった。


「いらっしゃいませ」


「おやおや。見ない顔だね」


「次一と申します」


「次一さん?」


 男は咲と次一を交互に見た。


 咲が少し照れたように笑う。


「私の夫です。このたび、婿に入ってくれました」


「ほう!」


 男の声が、土間に響いた。


「そうかい、そうかい。咲ちゃんも嫁に行く歳になったかと思えば、婿さんを迎えたのか」


「はい」


「いやあ、賑やかになったねえ!」


 男は声を立てて笑った。


 その声につられたのか、台所からおきぬが顔を出した。


「あら、誰かと思えば。お久しぶりじゃないか」


「おかみさん、ご無沙汰しております」


「ほんとにねえ。しばらく顔を見せないから、どうしたのかと思っていたよ」


「いやあ、あちこち歩き回っておりましてね。けれど、ここの飯が恋しくなりまして」


「口がうまいねえ。まずは荷を置いておいで。お茶を出すからさ」


「ありがたい」


 男は荷を次一に預け、草鞋を脱いだ。


 次一は荷を受け取りながら、男の足元に目をやった。


「ずいぶん歩かれたようですね。足を休めてください」


「おや、気がつくねえ」


「いえ、私もまだ、ここへ来て日が浅いものですから」


「そうかい。では、これからいろいろ教えてもらわんとな」


「私がですか?」


「そうさ。若旦那にね」


 男がにやりと笑った。


 次一は一瞬、返事に詰まった。


 若旦那。


 この家に入ってから、家族には次一と呼ばれている。客からそう呼ばれるのは、これが初めてだった。


「……まだ、そう呼ばれるのには慣れません」


「ははは。すぐ慣れるさ。ここにいるんだからねえ」


 男はそう言って、座敷へ上がっていった。


 次一は、その後ろ姿を見送った。


「若旦那、だって」


 隣で咲が小さく笑っている。


「咲さんまで」


「だって、本当のことだもの」


「まだまだ、教わることばかりです」


「私だって、そうだよ」


 咲はそう言って、客の荷を置いた場所を確かめに行った。


 次一はその背中を見ながら、少しだけ肩の力を抜いた。


     *


 夕餉の頃には、旅人もすっかりくつろいでいた。


 喜助と昔の街道の話をし、おきぬの料理に舌鼓を打つ。千も座敷へ顔を出し、以前にこの男が道に迷った話を持ち出した。


「そうそう、あのときは大変だったんだよ。宿場をひとつ通り過ぎてしまってね」


「それで、うちに着いたのが夜も更けてからだったんだ」


 喜助が言うと、おきぬが笑った。


「お腹が空いたって、何度も言っていたねえ」


「いやあ、あのときのおいなりさんが忘れられなくて」


「またそれかい」


 おきぬは呆れたように言いながらも、嬉しそうだった。


「今日は帰りに持たせてあげるよ」


「そりゃあ、ありがたい!」


 話の輪の中で、次一は皆の顔を眺めていた。


 商家にいた頃も、客と話すことはあった。けれど、ここでは客の話が、家族の思い出につながっている。


 誰がいつ来たか。どんな道を歩いてきたか。何を食べ、何を話したか。


 旅人が去っても、その人の話はこの家に残る。


「若旦那」


 声をかけられ、次一は顔を上げた。


「はい」


「今度来たときには、あんたの話も聞かせておくれよ。どんなふうにこの宿を変えていくのか、楽しみにしているからね」


「私が変えるのですか」


「そりゃあ、若旦那が来たんだからねえ」


 男は笑った。


 次一は、すぐには答えられなかった。


 この宿を変えようなどと、考えたことはなかった。ただ、咲と一緒に暮らし、教わりながら仕事を覚えていこうと思っていた。


 けれど、いつか自分も、この家の一部になっていくのだろうか。


「……まずは、皆さんに教わりながら、覚えていきたいと思います」


「それがいい。それが一番だ」


 男は満足そうにうなずいた。


     *


 翌朝、旅人は荷を背負い、土間へ下りてきた。


「お世話になりました」


「道中、お気をつけて」


 咲が頭を下げ、次一が戸口まで見送る。


 おきぬが包みを持ってきた。


「はい、これ。道中で食べな」


「おお、ありがたい。ここのおいなりさんは、ほんとうに楽しみでねえ」


 男は包みを大切そうに荷へしまった。


 それから、次一の肩をぽんと叩いた。


「若旦那、また来るよ」


「はい。お待ちしております」


「その頃には、もうすっかり板についているかな」


「どうでしょう。まだまだです」


「ははは。楽しみにしているよ」


 男は街道へ歩き出した。


 笠が人の往来の向こうへ小さくなっていく。


 咲は隣で、次一と同じようにその背中を見送っていた。


「また来てくれるといいね」


「ええ」


「次は、もっといろいろ話を聞けるかな」


「そうですね。今度は私も、街道のことを教えてもらおうと思います」


 咲は笑った。


 戸口の向こうから、朝の風が吹き込んだ。


 帳場では喜助が、昨夜の宿帳を開いている。


 旅人の名前の下には、いつものように短い覚え書きが添えられた。


 その隣に、次一が腰を下ろす。


「父さん、昨日のお客さんのことも書いておきましょうか」


「ああ。昔からの馴染みだ。忘れんようにな」


 喜助は筆を置き、次一に帳面を渡した。


 次一は墨を含ませた筆を手に取った。


 何を書けばいいのか、少し考える。


 それから、旅人が話していたことを思い出しながら、ゆっくりと筆を動かした。


 宿の朝は、今日も賑やかだった。

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