第一話 新しい朝
夜明け前、台所から薪のはぜる音がした。
次一は、目を覚ました。
障子の向こうは、まだ薄暗い。隣では咲が眠っている。起こさないように布団を抜け出し、そっと着物に袖を通した。
この家に婿入りしてから、まだ幾日も経っていない。
朝は早いと聞いていたが、商家にいた頃とは違う。あちらでは店を開ける前に帳面を確かめ、荷の数を揃えればよかった。ここでは、客が起きるより先に湯を沸かし、食事を整え、馬の様子を見て、戸口を掃く。
日が昇る前から、することがいくつもある。
次一が廊下へ出ると、台所の方から、おきぬの声がした。
「おや、起きたのかい」
「はい。何か手伝えることはありませんか」
「そうだねえ。そこの桶に水を汲んできておくれ。朝の分には、まだ足りないからね」
「分かりました」
桶を手に、次一は裏口へ向かった。
井戸端には、夜の冷たさが残っていた。綱を引くと、滑車がきいと鳴る。汲み上げた水が桶の中で揺れ、薄明かりを映した。
水を運んで戻ると、おきぬは米を研いでいた。かまどのそばでは、湯気が白く立ち上っている。
「そこへ置いとくれ。ありがとうよ」
「これだけでよかったんですか」
「朝の仕事は、これからさ」
おきぬは笑った。
次一も、つられて笑った。
商家で働いていた頃、朝の仕事は段取りが肝心だと教えられた。だが、この家では、段取りどおりにいかないことも多い。
客が早く起きる日もある。道が悪くて到着が遅れる日もある。腹を空かせた旅人が、予定より早く戸を叩くことだってある。
帳面の数字だけでは分からないことが、ここにはたくさんあった。
「次一さん」
振り返ると、咲が立っていた。
髪をまとめ、たすき掛けをしている。寝起きの顔にはまだ少し眠たげな色があったが、手にはもう布巾を持っていた。
「おはようございます」
「おはよう。早いね」
「次一さんこそ」
咲は小さく笑い、台所の隅に積んであった膳を運び始めた。
「それ、こっちにもらおうか」
「大丈夫です。これくらい」
「じゃあ、そっちはお願いしようかな」
二人で膳を並べる。
夫婦になってから、咲は次一を名前で呼ぶようになった。けれど、ときどき、まだ少しだけよそよそしい。次一も、咲に何と声をかければいいのか、迷うことがある。
同じ家で暮らしているのに、知らないことがまだ多い。
咲が膳を置くたび、木の床がかすかに鳴った。
「おっかあ、味噌はどこ?」
奥から千の声がした。
「いつものところだよ」
「ないよ」
「そんなはずはないだろう。よく見な」
しばらくして、千が味噌の入った器を抱えて現れた。
「……あった」
「ほらね」
おきぬが笑う。咲も笑った。
次一は、器を抱えた千と目が合った。
「おはようございます」
「おはよう、次一さん。もう水汲みもしたの?」
「ええ」
「じゃあ、今日は私が先に仕事を見つけなきゃ」
「仕事?」
「そう。次一さんに負けていられないもの」
千はそう言って、器を台所へ置いた。
この家では、朝から皆がよく動く。そして、よく話す。
次一が育った家にも家族はいたが、商いの話が中心だった。ここでは、仕事の合間にも、昨日泊まった旅人のことや、近所で見かけた人のことが話題になる。
人の暮らしが、仕事のすぐ隣にあるのだ。
*
朝餉が済む頃には、東の空が明るくなっていた。
喜助が帳場に座り、昨日の宿帳を開いている。墨の匂いが、朝の空気にかすかに混じっていた。
「父さん、昨日の勘定ですが」
次一が声をかけると、喜助は顔を上げた。
「うん」
「こちらの方、二泊でしたから、食事の分が一つ足りないように思います」
帳面を差し出すと、喜助は指で行をたどった。
「ああ、そうだな。夕餉の分を書き忘れた」
「では、こちらに足しておきます」
「頼む」
喜助は帳面を次一に渡した。
そのやり取りを、咲が少し離れたところから見ていた。
父が帳面を人に渡すことは、珍しいことではない。けれど、次一がこの家の帳場に座り、父の隣で勘定を確かめている姿は、まだ見慣れなかった。
次一は商家で覚えた手つきで、筆を取った。
数字を書き足し、墨が乾くのを待つ。
「これでよろしいでしょうか」
「ああ。助かった」
喜助はそれだけ言って、次の頁を開いた。
大げさに褒めることもない。次一も、褒められたことをことさらに喜ぶ様子はなかった。
けれど、帳場の向こうで二人の様子を見ていた咲は、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
父の隣に、次一がいる。
それが、少しずつ当たり前になっていくのだろう。
「咲」
呼ばれて振り返ると、おきぬが玄関先を指さしていた。
「そろそろ、表を掃いておくれ。お客さんが出立する前にね」
「うん」
咲は箒を手に取った。
表へ出ると、朝の風が頬を撫でた。軒先には夜露が残り、道の向こうから荷を背負った旅人が歩いてくるのが見えた。
咲は箒を動かしながら、ふと、隣に立つ次一を見た。
次一も旅人に気づいたらしい。帳場から出て、戸口へ向かっていた。
「おはようございます」
次一が声をかける。
旅人は足を止め、二人を見比べた。
「こちらが、若旦那さんかい」
「はい。次一と申します」
「そうかい。では、そちらが若女将さんだね」
咲は少しだけ背筋を伸ばした。
「はい。どうぞ、お入りください」
旅人は、ほっとしたように笑った。
「いやあ、助かった。昨夜から歩き詰めでね。こちらで一晩、休ませてもらおうと思って」
「お荷物をお持ちします」
次一が手を伸ばすと、旅人は遠慮がちに荷を預けた。
咲は先に立って、客を座敷へ案内した。
いつもの朝だった。
けれど、旅人の口から聞いた「若女将」と「若旦那」という言葉が、咲の耳に残っていた。
掃き清めた土間に、朝の光が差し込んでいる。
帳場では喜助が新しい頁を開き、おきぬは台所で昼の支度を考えている。千はどこかへ地図を描く紙を探しに行ったらしい。
そして、次一は旅人の荷物を置き、咲に何か尋ねようとしていた。
「咲さん、こちらのお客さんは――」
「お茶を先にお出しするの。少し休んでもらってから、食事をどうするか聞こう」
「なるほど。分かりました」
次一はうなずき、湯を用意しに向かった。
咲はその背中を見送ってから、もう一度箒を手に取った。
この家で暮らすこと。
この家を守ること。
まだ、どちらも始まったばかりだ。
表の道を、また一人、旅人が歩いていく。
その足音が遠ざかると、旅籠の中には、湯の沸く音と、台所で食器を重ねる音が戻ってきた。
明日も、きっと同じように朝が来る。




