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宿帳  作者: 灯野 しおん
第二章 次一と咲

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第一話 新しい朝

 夜明け前、台所から薪のはぜる音がした。


 次一は、目を覚ました。


 障子の向こうは、まだ薄暗い。隣では咲が眠っている。起こさないように布団を抜け出し、そっと着物に袖を通した。


 この家に婿入りしてから、まだ幾日も経っていない。


 朝は早いと聞いていたが、商家にいた頃とは違う。あちらでは店を開ける前に帳面を確かめ、荷の数を揃えればよかった。ここでは、客が起きるより先に湯を沸かし、食事を整え、馬の様子を見て、戸口を掃く。


 日が昇る前から、することがいくつもある。


 次一が廊下へ出ると、台所の方から、おきぬの声がした。


「おや、起きたのかい」


「はい。何か手伝えることはありませんか」


「そうだねえ。そこの桶に水を汲んできておくれ。朝の分には、まだ足りないからね」


「分かりました」


 桶を手に、次一は裏口へ向かった。


 井戸端には、夜の冷たさが残っていた。綱を引くと、滑車がきいと鳴る。汲み上げた水が桶の中で揺れ、薄明かりを映した。


 水を運んで戻ると、おきぬは米を研いでいた。かまどのそばでは、湯気が白く立ち上っている。


「そこへ置いとくれ。ありがとうよ」


「これだけでよかったんですか」


「朝の仕事は、これからさ」


 おきぬは笑った。


 次一も、つられて笑った。


 商家で働いていた頃、朝の仕事は段取りが肝心だと教えられた。だが、この家では、段取りどおりにいかないことも多い。


 客が早く起きる日もある。道が悪くて到着が遅れる日もある。腹を空かせた旅人が、予定より早く戸を叩くことだってある。


 帳面の数字だけでは分からないことが、ここにはたくさんあった。


「次一さん」


 振り返ると、咲が立っていた。


 髪をまとめ、たすき掛けをしている。寝起きの顔にはまだ少し眠たげな色があったが、手にはもう布巾を持っていた。


「おはようございます」


「おはよう。早いね」


「次一さんこそ」


 咲は小さく笑い、台所の隅に積んであった膳を運び始めた。


「それ、こっちにもらおうか」


「大丈夫です。これくらい」


「じゃあ、そっちはお願いしようかな」


 二人で膳を並べる。


 夫婦になってから、咲は次一を名前で呼ぶようになった。けれど、ときどき、まだ少しだけよそよそしい。次一も、咲に何と声をかければいいのか、迷うことがある。


 同じ家で暮らしているのに、知らないことがまだ多い。


 咲が膳を置くたび、木の床がかすかに鳴った。


「おっかあ、味噌はどこ?」


 奥から千の声がした。


「いつものところだよ」


「ないよ」


「そんなはずはないだろう。よく見な」


 しばらくして、千が味噌の入った器を抱えて現れた。


「……あった」


「ほらね」


 おきぬが笑う。咲も笑った。


 次一は、器を抱えた千と目が合った。


「おはようございます」


「おはよう、次一さん。もう水汲みもしたの?」


「ええ」


「じゃあ、今日は私が先に仕事を見つけなきゃ」


「仕事?」


「そう。次一さんに負けていられないもの」


 千はそう言って、器を台所へ置いた。


 この家では、朝から皆がよく動く。そして、よく話す。


 次一が育った家にも家族はいたが、商いの話が中心だった。ここでは、仕事の合間にも、昨日泊まった旅人のことや、近所で見かけた人のことが話題になる。


 人の暮らしが、仕事のすぐ隣にあるのだ。


     *


 朝餉が済む頃には、東の空が明るくなっていた。


 喜助が帳場に座り、昨日の宿帳を開いている。墨の匂いが、朝の空気にかすかに混じっていた。


「父さん、昨日の勘定ですが」


 次一が声をかけると、喜助は顔を上げた。


「うん」


「こちらの方、二泊でしたから、食事の分が一つ足りないように思います」


 帳面を差し出すと、喜助は指で行をたどった。


「ああ、そうだな。夕餉の分を書き忘れた」


「では、こちらに足しておきます」


「頼む」


 喜助は帳面を次一に渡した。


 そのやり取りを、咲が少し離れたところから見ていた。


 父が帳面を人に渡すことは、珍しいことではない。けれど、次一がこの家の帳場に座り、父の隣で勘定を確かめている姿は、まだ見慣れなかった。


 次一は商家で覚えた手つきで、筆を取った。


 数字を書き足し、墨が乾くのを待つ。


「これでよろしいでしょうか」


「ああ。助かった」


 喜助はそれだけ言って、次の頁を開いた。


 大げさに褒めることもない。次一も、褒められたことをことさらに喜ぶ様子はなかった。


 けれど、帳場の向こうで二人の様子を見ていた咲は、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 父の隣に、次一がいる。


 それが、少しずつ当たり前になっていくのだろう。


「咲」


 呼ばれて振り返ると、おきぬが玄関先を指さしていた。


「そろそろ、表を掃いておくれ。お客さんが出立する前にね」


「うん」


 咲は箒を手に取った。


 表へ出ると、朝の風が頬を撫でた。軒先には夜露が残り、道の向こうから荷を背負った旅人が歩いてくるのが見えた。


 咲は箒を動かしながら、ふと、隣に立つ次一を見た。


 次一も旅人に気づいたらしい。帳場から出て、戸口へ向かっていた。


「おはようございます」


 次一が声をかける。


 旅人は足を止め、二人を見比べた。


「こちらが、若旦那さんかい」


「はい。次一と申します」


「そうかい。では、そちらが若女将さんだね」


 咲は少しだけ背筋を伸ばした。


「はい。どうぞ、お入りください」


 旅人は、ほっとしたように笑った。


「いやあ、助かった。昨夜から歩き詰めでね。こちらで一晩、休ませてもらおうと思って」


「お荷物をお持ちします」


 次一が手を伸ばすと、旅人は遠慮がちに荷を預けた。


 咲は先に立って、客を座敷へ案内した。


 いつもの朝だった。


 けれど、旅人の口から聞いた「若女将」と「若旦那」という言葉が、咲の耳に残っていた。


 掃き清めた土間に、朝の光が差し込んでいる。


 帳場では喜助が新しい頁を開き、おきぬは台所で昼の支度を考えている。千はどこかへ地図を描く紙を探しに行ったらしい。


 そして、次一は旅人の荷物を置き、咲に何か尋ねようとしていた。


「咲さん、こちらのお客さんは――」


「お茶を先にお出しするの。少し休んでもらってから、食事をどうするか聞こう」


「なるほど。分かりました」


 次一はうなずき、湯を用意しに向かった。


 咲はその背中を見送ってから、もう一度箒を手に取った。


 この家で暮らすこと。


 この家を守ること。


 まだ、どちらも始まったばかりだ。


 表の道を、また一人、旅人が歩いていく。


 その足音が遠ざかると、旅籠の中には、湯の沸く音と、台所で食器を重ねる音が戻ってきた。


 明日も、きっと同じように朝が来る。

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